読書の記憶 三十五冊目 「やまなし 宮沢賢治」

僕が小学校の低学年だった時の話。文化祭の時に、宮沢賢治の「やまなし」を演じた学年があった。その舞台を見た僕は、軽い衝撃を受けた。衝撃といっても、舞台の内容そのものにではない。「やまなし」の内容が、まったく意味が理解できないことに衝撃を受けたのだった。

何がおもしろいのかわからない。いや、おもしろさという以前に、意味がわからない。これは何だ? 舞台で演じられているということは、すごい作品なのだろう。すごくて有名な作品なのだろう。しかし、今の自分にはその素晴らしさがわからない。「クラムボン」とは何だ? 舞台が進行しても「クラムボン」が何なのかわからない。どうやらあの蟹が「クラムボン」ではないらしいことはわかる。しかしいくら待っても「クラムボン」は登場しない。蟹達も説明することはない。そして、わらっていた「クラムボン」は殺されて死ぬ。そしてまた笑う。殺された「クラムボン」が生き返ったのか? それとも別の「クラムボン」? いや「クラムボン」は生き物の名前ではなく、何か別の存在なのか? やはりわからない。

ひとしきり考えたあと、僕は理解することをあきらめた。たぶん今の自分にはまだ無理なのだ。もう少し学年が上がって、いろいろと勉強すればわかるようになるのかもしれない。悔しいけれど、今の自分には無理なのだ。まだまだ今の自分には理解できないことが、たくさんあるのだ。そのひとつがこの「クラムボン」なのだ。でもいつかきっと。学年が上がれば、あと数年後になれば、きっと理解できるようになっているはず。そんな風に考えることにした。


それから、だいぶ時間が過ぎた。十年も二十年も三十年以上もの時間が過ぎた。先日、あらためて「やまなし」を読み返してみた。そこには、軽やかなリズムと、ぷかぷかと流れながら大きくなっていく二つの魂の姿があった。すこしだけ作品の世界を理解できたような気がした。

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