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「魔術 芥川龍之介」読書の記憶 五十七冊目

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自分は「マニュアル世代」と呼ばれる世代になるらしい。どちらかというと、この「マニュアル世代」という言葉は「マニュアルがなければ何もできない」と、批判的なニュアンスで使われていたような印象がある。「マニュアルのお陰で効率良く作業は進められるが、逆にマニュアルに書かれていないことには対応できない。つまり自分の頭で考えて行動することができない」といった類の批判だったように記憶している。

そういえば、小論文の練習課題か何かのレポートだったかで「マニュアル世代の問題点」のようなテーマで、書いたような記憶がある。当時は「自分の頭で考えることが重要」のような内容で書いたが、実際には「マニュアルで事前にシュミレーションできる事により余裕が生まれるので、弊害よりも利益の方が多い」と思っていた。そもそも「自分の頭で考えろ」と口にする人は、本当に自分の頭で考えているのだろうか、とさえ感じていた。生意気な若者である。
もしも人生にマニュアルが存在し、事前に対応方法をシュミレーションすることができたならば、どのような人生になるのだろう。うれしいことも「このようにすれば100%うまくいく」という手順を知ることができたのなら、喜びは消失するだろうか。いや、意外とそれはそれで嬉しいような気がする。最悪な事項も、対処法の手順があると知っていれば、多少は乗り越えやすくなるかもしれない。それ以前に、想定外のできごとなど、そうそう起こりうるものではないのだから、ある程度のことはマニュアルで済ませておいた方がいいのではないか。などと考えてしまうところが「マニュアル世代」なのかもしれない。


「ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。(魔術 芥川龍之介)」
どちらにせよ、体験しなければ体得することはできない。実際に痛い目に合わなければ、本気で考えることはできない。欲望はマニュアルでは解決できない。現実の世界は、いつだってマニュアルをはみだしたところに存在する。それを理解していればマニュアル世代と揶揄されることも怖くはない。芥川の魔術を読みながら、そんなことを考えました。


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「模試の小説」は、わりと好きだった。読書の記憶 五十六冊目

受験生の思い出と言えば「模試」である。毎月一回(または二回)定期的に行われる「それ」を受験しては、その結果に一喜一憂する。いや、実際のところ、ほとんど対策らしい対策もせずに模試を受験していたのだから、結果はでないのは当然で「一憂」する資格などないはずである。それなのに結果を見ながら「今回は調子が悪かった!」などと考えていたのだから、実にどうしようもない受験生だったと思う。勉強の成果を確認するのではなく、勉強をしていないことを確認するために模試を受けていたようなものだ。なんというか本末転倒の模試活用方法だったなと思う。
そんな中でも、国語の現代文は、わりと好きな分野だった。とくに問題に使われている「小説」は、なかなかおもしろいものが多く、しかも良いところで切り取られていることも多いので「ああ、続きが読みたい…」と、思ったものだった。偶然、以前読んだことがある作品が出題されている時などは「今回はもらった!」と、わくわくしたりもした(しかし、結果はいつも通りだった)。
残念ながら自分の場合、問題文は面白く読めるのだが、解答は芳しくないことが多かった。実際、五教科の中で「国語」の成績が一番悪かった(中・高共に、5段階評価で4が最高だったと記憶している)から、楽しく読むことと問題を解答することは、また別の能力なのだと思う。そんな自分が、今の仕事をしているのを知ったら、当時の国語の先生はどう思うのだろう。いや、先生の記憶にすら残っていない生徒だったと思うから、聞くだけ無駄かもしれない。
もしも今、当時と同じ問題に挑戦した場合、多少点数は上がるのだろうか。当時よりも読書量は増えているから、多少は得点力も養われているだろうか。ちょっと試してみたい気もしていると同時に、思い出は思い出のままにしておいた方が良いような気もしている。