読書の記憶 四十五冊目 「グスコーブドリの伝記 宮沢賢治」

小学六年生。修学旅行へ行った時の話。初日の夜、夕食のあとにミーティングがあった時のこと。その時ぼくは、学級委員をしていたので「今日のまとめ」のようなことを、クラスのみんなの前で話すことになった。話の内容は、もう覚えていない。せいぜい、今日はとてもよかったです、程度のことを適当に話したように思う。

僕が話し終わると、担任の先生が「今、佐藤が話したことで気がついたことはあるか?」というようなことを口にした。僕は、何か良くないことを話してしまったのだろうかと思った。たぶん、みんなもそう思ったのだと思う。その場は、しーんと静まりかえってしまった。

先生は「佐藤の声が枯れていることに気がついたか?」とみんなに問いかけた。「なんで、声が枯れたのだと思う? お前たちが、ちゃんとしないから、佐藤が大きな声を出さなくていけなかったんだ。だから、枯れてしまったんだ」「今日、クラスでいちばん頑張ったのは佐藤ではないか? みんなの前に立って、責任感を持って頑張っていたと思わないか?」と言った。

それから先生は、数人を指名して感想を述べさせた。みんな「明日からは、委員長が声を出さなくていいように、ちゃんとしたいです」「すごく偉いと思います」などと、いうようなことを言った。僕はそれを、みんなの前で立って聞いた。頭の中では、もういいから早く終わらないか、と考えていた。みんなが言うことを聞かないから声が枯れたのではなく、自分が必要以上に大きな声を出したから枯れただけだと、思っていたからだ。そしてなによりも声が枯れるということは(小六生の僕にとって)格好わるい事のように感じていたからだ。

ひと通り意見を聞いてから先生は、僕の横に立っていた副委員長に意見を求めた。副委員長の彼は(その時は、委員長も副委員長も男子だった)、えーと、と言いながら、声が枯れているような雰囲気で話し始めた。誰かが「オマエも声が枯れているようなマネをしても、ダメだ」と、からかった。みんなが笑った。


宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を読んだ時、ふいにこの出来事を思い出した。主人公ブドリは、みんなを助けるために一人で危険な現場へ行くと主張する。

「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。(グスコーブドリの伝記 宮沢賢治より)」

賢治が書きたかったことは「ほんとうの考えを、みんなでしっかりと理解し共有し実行すれば自然さえも動かす可能性があるかもしれない」ということだったのではないだろうか。その具体例として「賢治の頭の中で行われた思考実験」を物語にしてみたのではないだろうか。それが本作品のテーマだったのではないか。そんなことを考えながら、この作品を読み返していた。そしてなぜか僕の頭の中には、みんなの前でうつむきながら立っている小学生の時の自分の姿が思い浮かんでいたのだった。

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