【Youtube】オンライン文学講座【佐藤ゼミ】 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ こちらのブログ更新は終了しましたが、Youtubeにて【佐藤ゼミ オンライン文学講座】を配信しています。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、宮沢賢治など、文豪の作品解説を通して「考えるヒント」を提供中。名言や文豪エピソードなど、気軽に楽しめるコンテンツもありますので、ぜひご視聴ください(無料配信です)☈佐藤のYoutubeチャンネル「オンライン文学講座 佐藤ゼミ」【佐藤ゼミ 仕事の価値は百年後に決まる【夏目漱石の手紙より】 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
「同じ本を二冊買ってしまった時に、考えたこと」読書の記憶 五十八冊目 同じ本を二冊購入してしまった時のショックは、意外と大きい。買った本を覚えていないのか、という自分の記憶力に対する情けなさ。買ったのに読んでいないから同じ本を買ってしまうのだ、という未読の本の多さに対する自己嫌悪。そもそも本を「読む」のが好きなのではなく、本を「買う」ことが好きなのではないか、と物欲の強さに対する自己批判。そんなあれこれが混ざり合って、わりと大き目のショックを感じるのではないかと思う。 ちなみに自分が同じ本を買ってしまうパターンは、 1)新刊で買った本を、古本屋で見つけて買う 2)古本屋で買った本を、古本屋で買う 大きくわけて、この二つに分類される。 1)の場合は「おお、欲しかった本が古本屋で安く売られている!」と得した気分になったのも束の間、自宅で同じ本を発見してダメージを受けるというパターンである。 2)の場合は「これは確か、すでに古本で購入したような気もするが・・・まあ、ダブッても安いからいいか」と、自分の曖昧な記憶に挑戦して破れるパターンである。迷ったならば、一度自宅に帰って確認してから購入すればいいのだが、古本の場合は次回の来店時まで売れ残っている保証はないので、一か八かで勝負を挑んでしまうわけである。そして、みごとに負けてしまいダメージが蓄積していくのである。 しかし最近では「もし売り切れても、それは縁がなかったということだから」と「迷ったら買うな」の自己ルールを定めるようになっていたため、ほとんど同じ本を買うことはなかった。実際に、次回に来店した時に売り切れていたとしても「仕方がない」とあっさりと諦めることもできるようになってきた。 これはおそらく、年齢を重ねることで「手に入らないことによる悲しみの感情」が減ってきたからかもしれない。「手に入るものよりも、入らないものの方が多いんだよ」と、経験から学んだ人生哲学のようなものが確立してきたからなのかもしれない。 しかし、その反面「一度手に入れたものに対する執着」は強くなってきたようにも感じる。手に入らないものは仕方がないが、そのかわり、一度手に入れたものはしっかり掴んで離したくない、という感情が強くなってきたようにも感じるのだ。そう考えると、全体ではプラスマイナスでゼロになるのだろうか。意外と、世の中というものは「そんな風に」どこかで つづきを読む »
「性に眼覚める頃 室生犀星」読書の記憶(九十五冊目) 高校生のころの話。僕は「文学史」のテスト対策として、作品と作者名を暗記していた。「蟹工船 小林多喜二」「田園の憂鬱 佐藤春夫」「太陽のない街 徳永直」「山椒魚 井伏鱒二」・・・。そこには、まだ読んだことのない作品がずらりと並んでいた。僕は作品名から内容を想像したり、語呂合わせをしたりしながら、苦手な暗記を繰り返していた。 その中でも、圧倒的に覚えやすかったのが、室生犀星の「性に目覚める頃」だった。「抒情小曲集」は覚えるのに苦労したが「性に目覚める頃」は、ストレートに頭の中に入ってきた。題名から想像するに官能的な内容なのだろうか? いや「目覚める頃」だから少年期から青年期にかけての時期の作品だろう。そうすると、少年の妄想を中心とした作品で・・・いや、室生犀星は詩人だから、悲しみを含んだ「性」なのかもしれない。 そんなことを考えながら「室生犀星 = 性に目覚める頃」は、わずか数秒で頭の中に叩き込まれたのだった。ちなみに、実際にテストに出題されたかどうかは忘れてしまった。「抒情小曲集」は、模試か何かで出題されたような気もするが、はっきりとは覚えていない。 この犀川の上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯うしろに、どっしりと聳えている飛騨の連峯を靄の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換えたりした。(性に目覚める頃 室生犀星より) 今年の五月の連休を利用して、金沢へ旅をした。旅先では、室生犀星が生活をしていた 雨宝院を訪問 した。住職から犀星についての説明を伺いながら、旅から帰ったら作品を読み返してみようと考えていた。 先日、時間ができたので「性に目覚める頃」を手に取った。住職に「ここが、当時の気配を色濃く残している場所です」と案内していただいた堂内の風景が頭に浮かんだ。塗香をして御本尊に手を合わせた時の香りの記憶も、ほのかに蘇ってきた。それは、やさしくも内に強い熱量を持った、あの青年期の気配に、どこか似ているような気がした。 つづきを読む »
ふしぎな図書館(村上春樹 佐々木マキ)読書の記憶 二十冊目 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。「確か」とか「だったと思う」と書くくらい記憶が曖昧で、全然違う授業だったかもしれない。もしかすると全く間違っているかもしれないが、とりあえず小学生の社会見学の授業ということで話を進めていく。 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。クラスで班を作って、希望の職場を見学に行くという内容で、僕は「図書館」を選んだのだった。前にも書いたけれど、小学生のころの自分にとって、図書館は「好奇心をくすぐられる場所」で世界で3番目くらいに好きな場所だったから、訪問できることがとても楽しみだった。自分が興味がある世界に、少しでも近づくことができる。そんなわくわくで胸を躍らせていたような記憶がある。 そして当日。僕の記憶に深く刻みこまれたのが「書庫」の風景だった。「ここから先は書庫で、普段は入れない場所なのだけど、今日は特別に」と、そのような説明を受けてから踏み込んだその場所は、古い本独特の埃っぽい匂いと、ひやりと冷たい空気と、少し薄暗い電灯と、そして見上げるような高さの本棚がずらりと奥まで並んでいる非日常な空間だった。その場所は、小学生の僕には「気安く立ち入ってはいけない場所」のように感じられた。いや、もしかすると「一度踏み込んだら、二度と出てこられない」ような、そんな異質な世界に感じられたのだった。 怖いような気がした。それと同時に、大人になったらまたこの場所に来よう、とも思った。今から死ぬまでにどれだけの本を読めるかわからないけれど、絶対にここにある本の半分くらいは読んでやる。いやもっと、できるだけもっとたくさん読んでやる。そんなことを考えていたと思う。 村上春樹の 「ふしぎな図書館」を読んだとき、僕の頭の中にはこの時の記憶が蘇ってきた。あの時案内された書庫の奥の方にも閲覧室があって、そこには小柄な老人がいて・・・。 村上春樹 ふしぎな図書館 中国行きのスロウ・ボート 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 佐々木マキ ぼくがとぶ ふしぎな図書館 つづきを読む »