【Youtube】オンライン文学講座【佐藤ゼミ】 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ こちらのブログ更新は終了しましたが、Youtubeにて【佐藤ゼミ オンライン文学講座】を配信しています。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、宮沢賢治など、文豪の作品解説を通して「考えるヒント」を提供中。名言や文豪エピソードなど、気軽に楽しめるコンテンツもありますので、ぜひご視聴ください(無料配信です)☈佐藤のYoutubeチャンネル「オンライン文学講座 佐藤ゼミ」【佐藤ゼミ 仕事の価値は百年後に決まる【夏目漱石の手紙より】 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
「坊っちやん 夏目漱石」読書の記憶 二十七冊目 大学に進んで上京してから半年くらいが過ぎた時だった。地元に帰って知人と話していたところ「なんだか、すごく早口になったね」と、いうようなことを言われた。特に自覚はなかった。しかし、そう言われてみると気になるので、後日他の人に「早口になったか?」と聞いてみた。特に早口だとは言われなかった。 もしかすると、その人の前では早口になってしまっていたのかもしれない。時間があまりなくて、なんとなくせわしない雰囲気になっていたので「早口になった」というような言い方をしてきたのかもしれない。もう少しゆったりと話をしよう、ということを伝えたかったのかもしれない。もうその人と会う機会はなくなってしまったから、本当のところはわからない。 漱石 の「坊っちやん」を読んだのは中学一年生の時だった。そしてこれが僕が初めて触れる漱石の作品だった。読み始める前までは「教科書に載っているような日本を代表する偉大な作家」という情報から「難しそう。自分にも理解できるだろうか」という印象だった。特別な「何か」があって、それを理解するには素養のようなものが必要なのではないか、と感じていたのだった。ところが最初の数行を読み始めた途端、その先入観はどこかへ吹き飛んでしまった。リズミカルな文章とスピード感のある展開にぐいぐいと引き込まれた。ほんの数時間で最後まで一気に読んでしまった。 「これが文豪と呼ばれる作家の作品なのか」と思った。どこか遠くの世界に旅して帰ってきたかのような感覚。そして「すごくおもしろい。これならいくらでも読める」と思った。 それから数年後、大学で日本文学を専攻するきっかけは「坊っちやん」を読んだことだったのかもしれない。先日ひさしぶりに「坊っちやん」を読み返した時も一気に最後まで読み終えてしまった。そして、ここに書いたようなことを思い出したのでした。 夏目漱石 掲載作品 三四郎 こゝろ 夢十夜 坊っちゃん 虞美人草 私の個人主義 明暗 つづきを読む »
ふしぎな図書館(村上春樹 佐々木マキ)読書の記憶 二十冊目 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。「確か」とか「だったと思う」と書くくらい記憶が曖昧で、全然違う授業だったかもしれない。もしかすると全く間違っているかもしれないが、とりあえず小学生の社会見学の授業ということで話を進めていく。 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。クラスで班を作って、希望の職場を見学に行くという内容で、僕は「図書館」を選んだのだった。前にも書いたけれど、小学生のころの自分にとって、図書館は「好奇心をくすぐられる場所」で世界で3番目くらいに好きな場所だったから、訪問できることがとても楽しみだった。自分が興味がある世界に、少しでも近づくことができる。そんなわくわくで胸を躍らせていたような記憶がある。 そして当日。僕の記憶に深く刻みこまれたのが「書庫」の風景だった。「ここから先は書庫で、普段は入れない場所なのだけど、今日は特別に」と、そのような説明を受けてから踏み込んだその場所は、古い本独特の埃っぽい匂いと、ひやりと冷たい空気と、少し薄暗い電灯と、そして見上げるような高さの本棚がずらりと奥まで並んでいる非日常な空間だった。その場所は、小学生の僕には「気安く立ち入ってはいけない場所」のように感じられた。いや、もしかすると「一度踏み込んだら、二度と出てこられない」ような、そんな異質な世界に感じられたのだった。 怖いような気がした。それと同時に、大人になったらまたこの場所に来よう、とも思った。今から死ぬまでにどれだけの本を読めるかわからないけれど、絶対にここにある本の半分くらいは読んでやる。いやもっと、できるだけもっとたくさん読んでやる。そんなことを考えていたと思う。 村上春樹の 「ふしぎな図書館」を読んだとき、僕の頭の中にはこの時の記憶が蘇ってきた。あの時案内された書庫の奥の方にも閲覧室があって、そこには小柄な老人がいて・・・。 村上春樹 ふしぎな図書館 中国行きのスロウ・ボート 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 佐々木マキ ぼくがとぶ ふしぎな図書館 つづきを読む »
「頭ならびに腹 横光利一」読書の記憶(八十二冊目) 待つのが吉か、移動するのが幸せか? レジの列に並ぶ時、自分が並んでいる列よりも隣の列の方が先に進みそうに感じることがある。 車を運転していて渋滞にぶつかった時、迂回できそうなルートに移動しようか、このまま待つか迷うことがある。 若い頃には「少しでも早い方が勝ち!」と、小まめに移動する方を選択することが多かった。ほんのわずかな差でも「こちらを選んで正解!」と感じる方へ即座に動いていた。 しかし、年齢を重ねて40代に突入したあたりから「多少の誤差ならば、待つのが吉」と(絶対的な確信がある場合を除いて)そのままの状態を維持することが多くなってきた。 これが「丸くなる」と、いうやつなのだろうか? 忍耐力が身についてきたのだろうか? 経験を積むことで洞察力が増し、効率重視の行動を慎むようになってきたのだろうか? ……いやたぶん、 体力が衰えて移動が「めんどう」になった からかもしれない。 「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」 (頭ならびに腹 横光利一より) しかし実際のところ「留まる」のと「移動する」のでは、 どちらが心地よい人生 になるのだろう? 「移動」は成功する場合もあるけれど、失敗することも少なくない。変化の刺激は気分転換になるけれど、その刺激は継続しにくい。 すると、多少の忍耐は必要になるけれど、 総合的には「留まる」方が、やや優勢なのではないか。 大抵はどっしりと構え、タイミングを見て蓄積した力で大きく動く。 鮮烈さは与えにくいが、深く刻みこむならばこちら だろう。 さて? さて? さて? ( 頭ならびに腹 横光利一より) 年齢を重ねる ことで失うものが目につきやすいけれど、得られるものもきっとある。それまでとは手触りが異なった「何か」を、見つけられるようになる。 横光利一の「 頭ならびに腹」 を読みながら、そんなことを考えました。 横光利一 時間 頭ならびに腹 犯罪 つづきを読む »