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【番外編】「6月19日は、何の日ですか?」

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大学生だったころの話。授業の最初に先生が「今日は何の日か知っていますか?」と問いかけてきた。 僕は頭の中にある記憶を探ってみた。そういえば、以前予備校で聞いた話の中に……。いや、違ったかな。そんなことをぼんやりと考えていると、先生は机の上の名簿を手に取り「では、○○さん。今日は何の日か知っていますか?」と指名をした。 「○○さん」は、そう、僕の名前だった。僕は頭の中にある曖昧な答えを口にしてみようか、いやいや間違ったことを発言するくらいなら黙っていた方が良いのではないか、などと一瞬のうちに考えを巡らせた。そして「確実ではない答えを提示するくらいなら、沈黙していた方がよい」という結論に達した。正しいかどうかだけではなく、何かを考えているのなら発言を試みるのが学びの場だというのに、中途半端な恥かしさを恐れた僕は沈黙することを選んだのだった。 僕は「わかりません」と答えた。先生は、別の生徒の名前を口にした。その人も、わからない、と答えた。先生は特に失望した様子も見せずに「今日は桜桃忌です」と言った。 ああ、そうだ。たしかに、いまごろの時期だった。何度か目にしていた情報だというのに、すっかりと忘れていた。日本文学の授業なのだから文学に関する話題に決まっているじゃないか……。と、思ったのだった。 あの日から「6月19日は桜桃忌」という情報が、僕の頭の中には情けない体験と共に刻まれることになった。そして、いつかどこかで誰かに「 太宰治 って、女性と心中したんだよね?」などと聞かれた時に「そうだよ。そして桜桃忌は6月19日ね」と聞かれてもいないことを間髪入れずに答えられるようにしようと決めたのだった。 あれから20年近い年月が過ぎた。今までに「太宰の死因」が話題に上がることはなかった。当然のことながら「6月19日」について説明を求められる機会もなかった。それでも、いつかまた聞かれる時のために、即座に答えられる準備だけはしておこうと毎年この時期になる度に思うのだった。 ☝ TOPへもどる ☝ このブログの目次

「中国行きのスロウ・ボート 村上春樹 」読書の記憶 三十九冊目

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六月といえば梅雨である。もちろん他にも色々と六月を印象づけるものがあるとは思うけれども、とりあえず自分の場合は梅雨であり、雨降りである。自分は今の時期の雨はわりと嫌いではない。もちろん、晴れの日が好きなことには変わりがないし、登山をしている時やキャンプなど野外活動時の雨はできれば避けたい天候である。なにしろテントを張ったり撤収したりしている時の雨は実に不快なものだ。通常の1.25倍の時間と手間と労力がかかる。そこに強い風などが吹いてきた日などは、ああ、なんてこった、うーっ、ともはや苦行の気配すら漂ってくる。なんでわざわざこんな日に、と自分で決めたことを批判したくなる。 しかし、釣りをしている時の雨は歓迎である。とくに六月から夏にかけての雨は格別なものがある。空から落ちてきた雨が水面に波紋を作り、あわてて着込んだ合羽をパタパタと叩く音を聞いていると、その美しい景色と音に誘われるように心の奥から和みの気配が沸きあがってくる。さあ、この雨で魚の活性も高くなるだろう。いつでもこい、と期待感も高まってくる。静かに降り続く雨の中、淡々と竿を降り続ける釣り人の頭の中には、このような和みと歓喜の渦がわきあがっているのである。 さて話を戻そう。今回の「雨降り」という言葉から、自分が最初に連想した作品は「 伊豆の踊子 /川端康成」だった。これはあきらかに、冒頭の「 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠が近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓からわたしを追って来た。(伊豆の踊子 より) 」がその理由である。雨が主人公の今までとこれからを暗示するかのような、重要なモチーフとなっているから、なぜこの作品が思い浮かんだのかは明白だった 。 そして、ほぼ同時にもう一作品思い浮かんだのが「中国行きのスロウ・ボート/村上春樹」だった。これは自分でも、なぜこの作品が思い浮かんだのが理由がわからなかった。他にも「雨」がモチーフになった作品はあるし、題名に使用されているものもある。なのになぜこの作品なのだろう。 自分自身のことなのだがわからなかったので、あらためて読んでみようと考えた。そしてそれは、読み返すまでもなく本を手に取った瞬間に理解できた。表紙の安西水丸氏のイラストである。この純粋な「水色」から雨をイメージしたのではないか。おそら