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星座を見つけよう(H・A・レイ)読書の記憶 六冊目

幼稚園のころ、ある絵本がきっかけで天体望遠鏡が欲しくてたまらなくなってしまった。何度か親に交渉を試みた結果、親が設定した目標を達成することで買ってもらえることになった。その目標は当時の僕にはわりと厳しい目標だったのだけれど、今ならば「それには意義を感じない」と否定するような内容ではあったのだが、健気にも僕はその目標を達成し天体望遠鏡を買ってもらえることになった。

そして父親は、僕に顕微鏡を買ってきてくれた。え? 入力ミス? いやいや間違いではない。望遠鏡ではなく顕微鏡を買ってきてくれたのだ。父は「なぜ、お前は天体望遠鏡が欲しいのか?」と理由を聞くタイプではなかったので、おそらく「子供には顕微鏡の方がいいだろう」と適当に解釈して顕微鏡に変更したのかもしれない。「望遠鏡も顕微鏡も大差なし」と思ったのかもしれない。単純に予算の関係だったのかもしれない。
しかし僕が欲しかったのは望遠鏡だった。約束を守ってくれた父親の好意はありがたかったが、望遠鏡でなければいけない理由があった。下を見るのではなく上を見たかった。その結果として、残念ながら顕微鏡は数回使われたあと、机の上に置かれたまま埃をかぶることとなる。


それから数十年の時間が流れた2年前のある日のこと。すっかりと大人になった僕は、ちょっとしたできごとがきっかけで望遠鏡を購入することになる。組立式の簡易的な望遠鏡だったのだけれど、ようやくついに望遠鏡を手にしたのだ。とんでもなくうれしかった。さっそく組み立てて、月を見た。リアルなクレーターの凹凸に感動して、何枚も写真を撮った。毎日「今日の夜の天気と月齢」を確認して、夜の空模様に一喜一憂しながら、イメージ通りの月の写真を撮影することに躍起になった。

数十年もの時間が流れても失われなかった「天体望遠鏡」への憧れを与えてくれた絵本の名前は「星座を見つけよう / H・A・レイ」である。子供の頃の僕は、この黄色の表紙の絵本を何度も読んだ。繰り返し読んだ。そしてこの絵本は、今でも普通に購入することができる。先日アマゾンで見つけた時には、思わず衝動買いをしそうになったが寸前でとどまった。大人の僕が手にするよりも、子供のところに届いた方が本も喜ぶと思ったからだ。

三四郎 (夏目漱石)読書の記憶 五冊目

中学生の頃の話。学年集会だったか全校集会だったかは忘れてしまった。そこで、ある先生が「今、みなさんは『青春』真っ盛りなわけですが・・・」というような話を始めた。その瞬間、生徒の間で失笑が起こった。生真面目な風貌の先生が「青春」という言葉を、唐突に口にしたことがなんとなくおかしかったのだ。

その時僕は、自分が「青春の真っ盛り」にいるとは考えられなかった。そもそも青春というものが、どのようなものかを説明することはできなかったけれど、とりあえず今とは違う「何か」が、そこには漂っていて「ああ、これがつまり青春ってやつなのかもしれない」と自分も周りにいる友人達も、目を合わせて黙ってうなづくような、静かなる熱狂がふつふつと心の奥から沸き上がって溢れ出しそうな、そんな感じの時間のような気がしていたからだ。少なくとも今の自分のような、退屈でエネルギーを持て余しているような状況とは全く異なった雰囲気の世界だろう、と思っていたからだ。

青春、という時間が、とっくの昔に過ぎ去ってしまった今。ふと「ところで青春ってやつは、いつ始まっていつ終わったのだろう」と考えた。「いつだって若々しい心を持っていれば、それがつまり青春を生きているということなのだ」という自己啓発本のような青春の定義ではなく「あ、今オレは青春なのだ」と自他共に認められるような青春の時代とは、いつだったのだろう。

とりあえず、青春らしいことも、心の奥底が抑えきれないほどふつふつとしたこともなかったような気がする。もしも「それ」が存在するとするのなら(存在したはずである)音もなくやってきて、そよ風のように遠くへ過ぎ去っていったのだろうか。いや、そよ風ならまだ体感することもできるから、そよ風とさえ言えないくらい微かに。


漱石の青春小説「三四郎」の主人公、三四郎は熊本から上京し東京帝国大学へ入学する。そこで出会った人、風景、できごとに翻弄されながらも、時々立ち止まり何かを考えようとする。考えるけれど、自分からは何もしようとはしない。ただ目の前の世界がスピードを加速して流れ変化して行く様子を眺めている。そして結論が出ないまま、話は終わる。もしも、これを「青春」と呼ぶのならば、そう確かに僕にも青春はあった。


夏目漱石 掲載作品

三四郎こゝろ夢十夜坊っちゃん虞美人草私の個人主義明暗