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雪国(川端康成)読書の記憶 十九冊目

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幼稚園のころの話。 母親に連れられて、病院に予防接種を受けに行った時の話。今はどうなのかわからないけれど、その病院では子供は腕に注射をするのではなく尻に注射するシステムになっていた。 ズボンを脱いで診察台のようなところにうつ伏せになり注射してもらうわけである。その頃の僕は、病院や注射に対する恐怖心のようなものがなかったので、はいここの上に上がってー、はいちょっと冷たいですよー、という感じで看護師さんに注射をしてもらうことに特に抵抗のようなものはなかったし、病院で診察を受ける時には服を脱ぐものだと思っていたから、特に何も考えずに指示に従って台の上にうつ伏せになっていた。 ある日予防接種に病院へ行った時のことだった。いつものようにズボンを脱いで台の上にうつ伏せになった僕を見た看護師さんが「恥ずかしくないのー?」と、クスッと笑いながら話しかけてきた。 すると、その様子を見た別の看護師さんが「恥ずかしいよねー。すぐ終わるから、ちょっと待っていてね」と、言って「恥ずかしくないの?」と口にした看護師さんに、そのようなことを言ってはいけない、と注意をしている様子が見えた。その時僕は、例え病院であったとしても服を脱ぐということは恥ずかしいことなのだ、ということを知ってしまった。新しい体験をすることで、今まで感じなかった感情が生まれてしまったのだった。 そして「次回からは、ギリギリまでは服を脱がないようにしよう」とか「この看護師さんではなくて、他の人にしてもらおう」などと、幼稚園児なりに色々と対策を考え始めることになったわけです。 川端康成の「雪国」を読んだのは高校2年生の夏休みくらいだったと記憶している。最初に読んだ時は、さりとて深い感銘を受けた記憶はなかった。 もちろん、なんだかよくわからないけれどすごい作品だ、とは感じていたけれども「なんだかよくわからないけど」というのが正直な感想だったと思う。社会人になり数年が過ぎた時、あらためて「雪国」を読み返してみた。とあるショットバーに「雪国」というカクテルがあって、連れがそれを頼んでいるのを見て読み返してみたくなったのだった。 読み終わってから、こんなに深い作品だったのか、としみじみとした。様々な体験をすることで、今までは見えていなかったことが見えてくるようになる。それが年齢を重ねるというこ

かさじぞう 読書の記憶 十八冊目:

3月11日 の震災から2ヶ月ほどが過ぎたあたりだったろうか。五月の連休はとうに過ぎてしまっていたような気もするから、3ヶ月ほど過ぎてしまっていたかもしれない。 僕は自転車に乗って、ひとり沿岸部を走っていた。あちらこちらに瓦礫が散乱していて、土の上を吹き抜けてくる風からは、海の匂いがした。子供のころから何度か通ったことがある道だったけれど、でももうそこには、目印にしていた建物も道標も、何も残ってはいなかった。ただ静寂に包まれた荒野が広がっているだけだった。 僕は、丁字路の手前に自転車をとめた。波打ったアスファルトの上に立って、海の方を見た。ここから海岸は、こんなに近かったんだ、と思った。車で10分以上走らないと海岸までは行けないと思っていたのに、今なら自転車でも数分で辿りつけそうだと思った。 その時だった。丁字路の左手の方から老夫婦が二人並んで、こちらの方に向かって歩いてきた。二人とも手には何も持っていなかった。いや、女性の方がペットボトルを持っていたような気もするけれど、くわしくは忘れてしまった。 二人は並んで僕の方に近づいてきた。そして挨拶するでもなく、突然「このあたりに、お地蔵さんはありませんでしたか?」と尋ねてきた。僕は、今自分が通ってきた道の記憶を探ってから「ちょっと見かけませんでした」と正直に答えた。すると二人は、そうですか、というような表情をすると、それならもうこれ以上あなたと話すことは何もありません、というように、すぐに右手の方へ歩いて行ってしまった。みるみると僕たちの距離は離れ、やがて見えなくなってしまった。 自宅に戻ってから、ふと子供のころに読んだ「かさじぞう」の絵本を思い出した。確か自宅の物置の奥の方に、まだ保管してあるはずだった。もう少し落ち着いたら、物置の中を探してみよう。そして、もう一度、あの丁字路へ行ってみようかと考えた。 そして、あれから数年が過ぎた。 まだ「かさじぞう」は探していない。何度か丁字路は車で通ったけれど、お地蔵さんを見かけることは一度もなかった。