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「葉 太宰治」読書の記憶(八十五冊目)

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背が高い人は、他の人よりも頭を下げなければいけない 小学六年生の時の話。僕たちは、体育館で卒業式の予行練習をしていた。全員で椅子から立ち上がり、正面に向かって一礼した時だった。ある先生が、僕のところにやってきて背中をトントンと叩いて言った。  「あんた、背が大きいのだから、他の人よりも深く頭を下げないとダメなんだよ」  その当時の僕は、わりと身長が高い方だった。たしか、学年で三番目くらいの身長だったと思う。いや五番目だったかもしれない。とにかくその先生は、僕の頭を下げる角度が浅いので「遠くから見ると、あんたの頭だけが上に飛び出ているように見えた」と注意にやってきたのだった。 僕は、その先生の前で立ったまま一礼を繰り返した。地面に向かって90度というよりは、135度よりも深く。先生から「良し」をもらうには、自分が想像していたよりも、ずっとずっと深く頭を下げなければいけなかった。   「背が高いと偉そうに見えるから、他の人よりも頭を下げないといけないんだよ」 それ以来僕は、自分の身長を気にするようになった。背が高いと偉そうに見える。先生に注意される原因にもなる。できるだけ頭を下げて、目立たないようにしなければならない。自分が思っているよりも、深く深く頭を下げなければいけない。背が高いということは、色々と周囲に気を配らなければいけない。小学校の時の僕は、そう体験から学んだのだった。 お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい 。 太宰治「葉」より 太宰治の「葉」 を読んだ時にこの時のことを思い出した。僕が少し猫背気味なのは、あの時先生に注意されたことが原因なのかも、しれなく、もない。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「真空溶媒(Eine Phantasie im Morgen) 宮澤賢治」読書の記憶(八十四冊目)

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私が、会社を辞めた時の話 会社を辞めた時の話。退社願いを提出した時には、確固たる思いがあった。主観的にも客観的にも「自分はこの会社を辞めるべきである」という理由が揃っていると考えていたから、 全く迷いがなかった 。 ところが予定の退社日が近づき、二週間を切ったあたりから、少しずつ心の奥のほうにざわざわとする感覚が芽生えてきた。作業の手を止めて見慣れた社内を見渡すと、そこには一緒に仕事をしてきた仲間達がいる。 自分がこの会社を辞めてこの場所からいなくなったとしても、彼らはこうやって仕事を続けていくのだ 、と考えると不可思議な感じがした。私はもうこの会社にいる意味がない、と考えている。しかし彼らはまだ「ここで働こう」と選択している。同じ場所にいるというのに、私たちの間には大きな溝がある。 しかしよくよく考えてみれば私自身も、それなりの手間をかけてこの会社の入社試験を受け、それなりに仕事をこなして、それなりに時間を積み上げてきた。ささやかだが、評価を得ることもできた。退社するという事は、そのような 積み重ねてきた時間を全てリセットすることになる。 築き上げてきた仲間たちとの関係も切り捨ててしまうことになる。たぶん私は「寂しさ」を感じていたのだ。そう、このざわざわは「寂しさ」なのだ。 しかし、今までの人生を思い返してみても「寂しい」というような感覚になった事は、ほとんどなかったように思えた。忘れてしまっているだけなのかもしれないが、子供の頃から過ぎ去っていくこと、失ったものに対して気持ちを向ける事は、さほど多くなかったと思う。親の仕事の都合で引越しをしたり、転校を繰り返した経験も影響しているのかもしれない。 それでも今、 自分は「寂しい」という気分を感じている。 どうしてなのだろう? これが年齢を重ねると言うことなのか? いやまさか、どうなのだろう? 仕事終えた私は、車に乗って帰宅の道についた。駐車場を出て、この道を通るのもあと数回だな、などと考えた。カーステレオの再生ボタンを押して、ボリュームを少しあげた。何十回と繰り返し聞いたアルバムの一曲が、頭の中に飛び込んできた。 文字通り、飛び込んできた。 私は、車のハンドルを指で叩きながら、曲に合わせて歌詞を口ずさんだ。まあ、なんとかなる、と思った。なんとかなる。 いや、な