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3月, 2017の投稿を表示しています

「心理試験 江戸川乱歩」読書の記憶 五十二冊目

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子供のころになりたかった職業のひとつが「スパイ」だった。なぜ、この職業に魅力を感じのかというと簡単で、家にあった「スパイのすべて」のような、子供向けの本を読んだからである。
その当時の僕がスパイに抱いていたイメージといえば「暗闇の中で、裏から世の中を動かす」とか「誰にも読めない暗号などを解読し分析する」というものだったと思う。とりあえず当時から、表舞台ではなく裏で静かに活動することに関心があったことがわかる。そして今でもわりと、そのような方向を好んでしまうのは、子供のころの読書体験の影響が大きいと思われる。もしも読んだ本が「スパイのすべて」ではなく「宇宙飛行士のすべて」だったのなら、そちらの方面を目指していたかも…しれなくもない。


江戸川乱歩の「心理試験」には、警察の心理試験を用いた尋問に対し、緻密な準備を行い罪から逃れようとする犯罪者(蕗屋清一郎)が登場する。それを華麗に見破るのが明智小五郎であり、彼が犯罪者を追いつめていく様子を楽しむのが推理小説の醍醐味である。
ところがこの作品を読んだ時の自分は、明智ではなく蕗屋に魅力を感じていたように思う。目的のために、先の先を読み緻密な計画を立て確実に実行する蕗屋。彼は目的を完遂するために、ありとあらゆることを調べ練習を重ねていく。
「彼は「辞林」の中の何万という単語を一つも残らず調べて見て、少しでも訊問され相な言葉をすっかり書き抜いた。そして、一週間もかかって、それに対する神経の「練習」をやった。(心理試験より)」当時の僕は、そのような蕗屋の姿に「自分の中にあるスパイ像」をかさねていたのだと思う。見えないところで、徹底的に努力をする。必要ならば、辞書の中にある何万という単語をすべて調べることも厭わない。どこか、その姿勢に魅力を感じていたように思う。最終的には「裏の裏を行くやり方」で、明智の知性が蕗屋の計画を上回っていくわけだけれども、この作品に関しては蕗屋側に共感してしまったのだった。
結局のところ、僕は「スパイ」にも「探偵」にもなれなかったけれど「表に出ないところで地道に準備をし、集めた情報で推測を重ね検証し形にしていく」という部分で、今の仕事にどこかつながっていくような気がする。そう、やはり、子どものころの読書体験は重要だと思うわけです。


江戸川乱歩少年探偵団心理試験日記帳

「あしながおじさん ジーン・ウェブスター」読書の記憶 五十一冊目

手紙を書くのは時間がかかる。ああでもない、こうでもない、と考えてようやく書き上げる。それでも、最近はメールになったから、だいぶ楽になった。手書きの時などは、一時間くらいかけてコツコツと書き終わったと思ったところ、誤字に気がついて最初から書き直すことになったり、これでは字が下手すぎるもう一度ていねいに書き直そう、なんてこともあった。書き直しで疲れてしまって、手紙を書くのを諦めてしまったこともあったと思う。
そんな風にして、数時間かけて書いた手紙も読むのは数分だ。あきらかに「書くこと」と「読むこと」の間には、費やす労力に差が生じ過ぎているように思う。この文章だって、ここまで書くのにそれなりの時間がかかっているけれど、読むのはほんの1分程度だったでしょう? つまりそういうことだ。

あしながおじさんの主人公ジルーシャ・アボット(ジュディ)は、大学に進学させてもらう際に、資金援助をしてくれる人(あしながおじさん)に手紙を書いて学生生活を報告することを義務づけられる。その手紙は、さらりと書かれているようで、ふんわりと心に染み込んでくる心地よくリズミカルなものだった。
「こんな手紙を書けるようになったら、楽しいだろう。もらう人もうれしいだろう」と、子どものころの僕は思った。まだこのような手紙を書く機会はないけれど、もしも将来そんなことがあるならば、ジュディの手紙を参考にして書こう、とも思った。ジュディは女子で自分は男だ、ということを考慮に入れていない、うかつな子供だったのだ。

幸か不幸か、この手紙を参考にして手紙を書く事はなかったけれど、今でも「こんな手紙を書けるようになりたい」という気持ちはどこかに残っているような気がする。

追伸:

今回、あしながおじさんを読み返してみて、ジュディが「宝島」を読んで夢中になっている場面があることに気がついた。当時の僕は、ここに気がついただろうか? 記憶に残っていないということは、この部分を読み飛ばしたか、ぼんやりと流し読みをしていたのだろう。やはり小学生のころの自分は、かなりうかつな子供だったということを確信した。いや、今でもうかつだから「今もむかしも、うかつな人間」が正確だ。

「風の又三郎 宮澤賢治」読書の記憶 五十冊目

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転校生だったころ小学校2年生の時に「転校生」になったことがある。親の仕事の都合だった。その時は、特に嫌だという感情はなかった。ある日「引っ越しをする」と親に言われ、気がついたら別の小学校に通うことになっていた、という程度の記憶しかない。いや、その時の担任の先生が苦手な感じの先生だったので、むしろ好ましく思っていた部分もあったかもしれない。
転校初日。職員室で新しい担任の先生に挨拶をした。「今から一緒に教室へ行きますよ。みんなの前で挨拶をしてもらうから、元気にね」と、いうようなことを言われた。先生が教室のドアを開けた。後に続いて中に入ると、わーっ、という歓声が上がった。「転校生だー!」のような声も聞こえた。そのあとのことは、もう覚えていない。帰り道も、どうやって家に向かったのか覚えていない。
数日後の放課後、クラスのY君とH君が遊びに誘ってくれた。僕たちは、近くの公園へ行き、そこにあった大きめの池で遊んだ。2人はクラスでも目立つ方の生徒だった。面倒見が良くて、色々な遊びを知っている体育が得意なY君と、やさしい笑顔を持っていて、どことなく洒落た感じのするH君。2人が仲間に入れてくれたおかげで、僕は一気にクラスに溶け込むことができた。もしも2人がいなかったのなら、ひとりで本を読んでいる存在感のない小学生になっていたかもしれない。

それから数年後、今度はH君が転校することになった。それがきっかけになったのか、いつのまにかY君とも遊ばなくなった。そして、そのまま僕たちは中学生になり、もう会話をすることも挨拶さえも交わすことはなくなっていった。

今ごろ2人は、どこで何をしているのだろう。なんとなくだけど、全く根拠はないけれど、いつかどこかで、どちらか1人とは再会できるような気がする。そして1人と再会することができたのなら、2人でもう1人を探しに行くような気がする。長い人生の中で、そんな奇跡のようなことがひとつくらいあっても、いいのではないだろうか、と思う。

「風の又三郎 宮澤賢治」 先日、宮沢賢治風の又三郎を読み返していた時、又三郎が「たばこの葉」を採る場面で、ここに書いた事を思い出した。とくに、同じような体験があった訳ではない。いや、もしかすると自分が忘れているだけで、似たようなことがあったのかもしれなくもない。



追伸:

ここまで文章を書き終わってから、ぱらぱらと本文を流し読みしてみた。…

「ライ麦畑でつかまえて J・D・サリンジャー」読書の記憶 四十九冊目

大学受験生だった時の話。友人達と、受験の際に提出する「自己紹介」について考えていた時のこと。S(仮名)が「愛読書の欄には『ライ麦畑でつかまえて』と書いておくといいらしい」と口にした。なぜ、と誰かが質問した。Sは「誰でも知っている『青春小説』で、やや個性的な印象をアピールできるから」と答えた。その時、僕はまだ本書を読んでいなかったので、ああ確かに、と思った。「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの印象から、さわやかな青春小説だと思っていたからだ。たぶん、そこにいた他の友人達も同じように感じていたのではないかと思う。
Sは「さらに、これを選ぶ理由をつけくわえると、面接の時につっこまれにくい作品だからだ。多くの人達は、この本を読んでいない。でも、名前は知っている。全く知らない作品名が書かれていても『?』で評価のしようがないけれど、名前を知っている作品なら、読んでいなくても『ああ、なるほど、あれね』とスルーしてくれる。この位置が重要になる」と、いうようなことも言った。僕たちは、なるほど確かに、とうなづいた。「女子っぽい作品、という印象もあるよな」と誰かが言った。「読書好きな女子は必ず読んでいる、みたいな」「そんな子と仲良くなりたいのなら、読んでおけ、みたいな」。そうそう、と僕たちはさらにうなづいた。
Sは、そんな僕たちの様子を見ると満足そうに「しかし、この本を愛読書に上げる人は、二種類しかいない。『きちんと読み込んだ人』か『全く読んでいない人』だ。そして全く読んでいないのに、なんとなくこれを書いてしまった人は、後でこの作品を読んだ時にイメージとのギャップに驚くことになる」と、いうようなことを言った。「でもまあ、入試の自己紹介の欄に書く作品としては、色々な意味で手頃でそれなりに効果が期待できる作品であることは、間違いないな」。誰かが「ところで、Sは読んだのか?」と聞いた。Sは「いや、読んでない」と答えた。「読んでもいないのに、なんでそんなことを知ってるんだ?」「ラジオで聞いたんだよ」


数年後。大学入試を終えた僕は、購入したものの読んでいなかった「ライ麦畑でつかまえて」を手に取ってみた。一気に読んだ。そして「イメージとのギャップ」に直面した。確かに青春小説ではあるし、興味深い作品だけど「ライ麦畑でつかまえてが、愛読書です」という女子とは、あまり話が弾みそうにはないな、と思ったのだっ…