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「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹」読書の記憶(八十七冊目)

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今から数年前の話。友人の看護師さんから「村上春樹を読んでみたいと思うのだけど、何かオススメはありますか?」と質問されたことがあった。その時僕は、ちょうど読み返していた「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を薦めることにした。彼女が普段選んでいるような本や話題に上る内容から考えて、この本がちょうどいいのではないか、と思ったからだ。 彼女は「わかりました」と答えた。僕は「よかったら、貸しましょうか?」と言いかけて止めた。他人から本を借りてしまうと「読まなければいけない」という義務感が生じてしまう。貸した方も「あの本はどうだったかな」と感想を聞きたくなる。でも、彼女は 本当に読みたいと思って質問したわけではなく、話の流れでなんとなく口にしただけかもしれない。 いや本当に読みたいと思っていたとしても、 彼女は普段、仕事でとても忙しくしているということを聞いていたから、そもそも 長編を勧めたのは間違いだったかもしれない。まずは読みやすい短編にするべきだったのかもしれない。一応 短編も勧めておこうか。そんなことを考えているうちに時間になり、その日はそこで話が終わりになった。 2週間が過ぎた。彼女からメールが届いた。そこには「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを読みました。とても面白かったので〇〇を買っちゃいました」と書かれてあった。そう、彼女は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を購入して読み終え、さらに新しい作品を購入していたのだった。 本を読むのは楽しい。そして、それを誰かに勧めた時に「おもしろかった」と言ってもらえたら、さらに楽しくうれしい。僕はパソコンのディスプレイの前で、ひとりニヤニヤしながら、今度会う時に感想を聞かせて下さい、と返信した。 彼女の首筋にははじめて会ったときと同じメロンの匂いがした。私は苦労して体の向きを変え、彼女の方を向いた。それで我々はベッドの上で向きあうような格好になった。 (世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドより) 先日、本棚を整理してる時に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が目に止まった。日に焼けて擦れて、背表紙の作者名が半分消えかけてしまったピンク色の装丁は、初めてこの本を手に取った時からだいぶ時間が過ぎてしまったことを実感させてくれた。

「中国行きのスロウ・ボート 村上春樹 」読書の記憶 三十九冊目

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六月といえば梅雨である。もちろん他にも色々と六月を印象づけるものがあるとは思うけれども、とりあえず自分の場合は梅雨であり、雨降りである。自分は今の時期の雨はわりと嫌いではない。もちろん、晴れの日が好きなことには変わりがないし、登山をしている時やキャンプなど野外活動時の雨はできれば避けたい天候である。なにしろテントを張ったり撤収したりしている時の雨は実に不快なものだ。通常の1.25倍の時間と手間と労力がかかる。そこに強い風などが吹いてきた日などは、ああ、なんてこった、うーっ、ともはや苦行の気配すら漂ってくる。なんでわざわざこんな日に、と自分で決めたことを批判したくなる。 しかし、釣りをしている時の雨は歓迎である。とくに六月から夏にかけての雨は格別なものがある。空から落ちてきた雨が水面に波紋を作り、あわてて着込んだ合羽をパタパタと叩く音を聞いていると、その美しい景色と音に誘われるように心の奥から和みの気配が沸きあがってくる。さあ、この雨で魚の活性も高くなるだろう。いつでもこい、と期待感も高まってくる。静かに降り続く雨の中、淡々と竿を降り続ける釣り人の頭の中には、このような和みと歓喜の渦がわきあがっているのである。 さて話を戻そう。今回の「雨降り」という言葉から、自分が最初に連想した作品は「 伊豆の踊子 /川端康成」だった。これはあきらかに、冒頭の「 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠が近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓からわたしを追って来た。(伊豆の踊子 より) 」がその理由である。雨が主人公の今までとこれからを暗示するかのような、重要なモチーフとなっているから、なぜこの作品が思い浮かんだのかは明白だった 。 そして、ほぼ同時にもう一作品思い浮かんだのが「中国行きのスロウ・ボート/村上春樹」だった。これは自分でも、なぜこの作品が思い浮かんだのが理由がわからなかった。他にも「雨」がモチーフになった作品はあるし、題名に使用されているものもある。なのになぜこの作品なのだろう。 自分自身のことなのだがわからなかったので、あらためて読んでみようと考えた。そしてそれは、読み返すまでもなく本を手に取った瞬間に理解できた。表紙の安西水丸氏のイラストである。この純粋な「水色」から雨をイメージしたのではないか。おそら

ふしぎな図書館(村上春樹 佐々木マキ)読書の記憶 二十冊目

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確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。「確か」とか「だったと思う」と書くくらい記憶が曖昧で、全然違う授業だったかもしれない。もしかすると全く間違っているかもしれないが、とりあえず小学生の社会見学の授業ということで話を進めていく。 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。クラスで班を作って、希望の職場を見学に行くという内容で、僕は「図書館」を選んだのだった。前にも書いたけれど、小学生のころの自分にとって、図書館は「好奇心をくすぐられる場所」で世界で3番目くらいに好きな場所だったから、訪問できることがとても楽しみだった。自分が興味がある世界に、少しでも近づくことができる。そんなわくわくで胸を躍らせていたような記憶がある。 そして当日。僕の記憶に深く刻みこまれたのが「書庫」の風景だった。「ここから先は書庫で、普段は入れない場所なのだけど、今日は特別に」と、そのような説明を受けてから踏み込んだその場所は、古い本独特の埃っぽい匂いと、ひやりと冷たい空気と、少し薄暗い電灯と、そして見上げるような高さの本棚がずらりと奥まで並んでいる非日常な空間だった。その場所は、小学生の僕には「気安く立ち入ってはいけない場所」のように感じられた。いや、もしかすると「一度踏み込んだら、二度と出てこられない」ような、そんな異質な世界に感じられたのだった。 怖いような気がした。それと同時に、大人になったらまたこの場所に来よう、とも思った。今から死ぬまでにどれだけの本を読めるかわからないけれど、絶対にここにある本の半分くらいは読んでやる。いやもっと、できるだけもっとたくさん読んでやる。そんなことを考えていたと思う。 村上春樹の 「ふしぎな図書館」を読んだとき、僕の頭の中にはこの時の記憶が蘇ってきた。あの時案内された書庫の奥の方にも閲覧室があって、そこには小柄な老人がいて・・・。 村上春樹    ふしぎな図書館   中国行きのスロウ・ボート   世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 佐々木マキ   ぼくがとぶ   ふしぎな図書館