「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹」読書の記憶(八十七冊目)
彼女は「わかりました」と答えた。僕は「よかったら、貸しましょうか?」と言いかけて止めた。他人から本を借りてしまうと「読まなければいけない」という義務感が生じてしまう。貸した方も「あの本はどうだったかな」と感想を聞きたくなる。でも、彼女は本当に読みたいと思って質問したわけではなく、話の流れでなんとなく口にしただけかもしれない。
いや本当に読みたいと思っていたとしても、彼女は普段、仕事でとても忙しくしているということを聞いていたから、そもそも長編を勧めたのは間違いだったかもしれない。まずは読みやすい短編にするべきだったのかもしれない。一応短編も勧めておこうか。そんなことを考えているうちに時間になり、その日はそこで話が終わりになった。
2週間が過ぎた。彼女からメールが届いた。そこには「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを読みました。とても面白かったので〇〇を買っちゃいました」と書かれてあった。そう、彼女は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を購入して読み終え、さらに新しい作品を購入していたのだった。
本を読むのは楽しい。そして、それを誰かに勧めた時に「おもしろかった」と言ってもらえたら、さらに楽しくうれしい。僕はパソコンのディスプレイの前で、ひとりニヤニヤしながら、今度会う時に感想を聞かせて下さい、と返信した。
彼女の首筋にははじめて会ったときと同じメロンの匂いがした。私は苦労して体の向きを変え、彼女の方を向いた。それで我々はベッドの上で向きあうような格好になった。
(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドより)
先日、本棚を整理してる時に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が目に止まった。日に焼けて擦れて、背表紙の作者名が半分消えかけてしまったピンク色の装丁は、初めてこの本を手に取った時からだいぶ時間が過ぎてしまったことを実感させてくれた。
彼女は今、何の本を読んでいるのだろう。あれからどんな作品に出会い、どのようなことを考えたのだろう。今ではもうそれを聞くことはできないけれど、きっとたくさんの本と共に楽しい時を過ごしているに違いない。周囲が少し茶色くなり始めたページをめくりながら、そんなことを考えました。
(補足)amazonを見ていたら「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の装丁が変更になっていたことに気がついた。結構、がらりと変えたんですね。今度、書店に立ち寄った時に現物を見てみたいと思います。
新装版の装丁は、こちら。