「春の夜 芥川龍之介」読書の記憶(九十三冊目)


「さっき、あなたに、そっくりの人を見ました」


会社勤めをしていた時の話。私はいつものように駐車場に車を停めて会社へ向かっていた。エレベーターの前で扉が開くのを待っていると、あとからやってきた同僚が、私の顔を見て驚いたような表情をした。

「佐藤さん、さっきあそこのコンビニのところにいましたよね」とその人は言う。
「駐車場からきたので、そっちには行ってませんよ」と私は答える。
「さっき、佐藤さんとそっくりの人をコンビニで見たんですよ。あれは、佐藤さんのドッペルゲンガーかもしれない」

私はその同僚から、ドッペルゲンガーの説明と「自分のドッペルゲンガーに会うと、死んでしまうらしい」などという物騒な話を聞かされることになった。私は「死ぬのは嫌だが、そんなに似ている人がいるなら見て見たい」と恐怖よりも好奇心の方が勝り、時折そのコンビニを覗いてみたりしたのだが、結局その会社に勤めている間に、ドッペルゲンガーらしき人物を見かける事はなかった。

春の夜 芥川龍之介

誰か一人ぶらさがるように後ろからNさんに抱きついたものがある。Nさんは勿論びっくりした。が、その上にも驚いたことには思わずたじたじとなりながら、肩越しに相手をふり返ると、闇の中にもちらりと見えた顔が清太郎と少しも変らないことである。いや、変らないのは顔ばかりではない。五分刈りに刈った頭でも、紺飛白らしい着物でも、ほとんど清太郎とそっくりである。(春の夜 芥川龍之介より)


「清太郎?――ですね。あなたはその人が好きだったんでしょう?」(春の夜 芥川龍之介より)


芥川龍之介の「春の夜」を読んだ時、ここに書いた事を思い出した。あれから今まで、私は自分のドッペルゲンガーに会ったことはない。おそらくこれからもないだろう。でも自分の「それ」ではなく、むかし気になっていた女性の「それ」には、会ってみたいような気がする。

芥川龍之介 春の夜

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