トロッコ (芥川龍之介)読書の記憶 三冊目



小学一年生のころ、鉄棒の練習に躍起になっていた時期があった。逆上がりは、なんとかマスターできたものの鉄棒に座ってそのまま後ろに回る技(正式名称は何というのだろう?)が、怖くてどうしてもできなくて悔しい思いをしていたのだった。この「腰掛け後ろ回り(仮)」ができるかどうかが、僕たちの中では「かっこよさ」を決める重要なポイントだったから、なんとかできるようになりたいと思っていた。

ところが僕は、子供のころから高いところがあまり得意ではなかったので、鉄棒に座ること自体が一苦労。そこから後ろに回ることなんて、どう考えてもできる気がしなかった。「いくぞ! いくぞ!」と自分に声をかけて励ますものの勇気を出せずに、ただ鉄棒に座ったまま時間だけが過ぎていく。そして友人から「○○は、この前の放課後にできるようになった」という報告を聞く度に、先を越された焦りと悔しさと切なさが混ぜこぜになって胸の奥のあたりが、きゅっと締め付けられるような気分になったものだった。

あの日は、半袖から出ていた腕が少し肌寒く感じていたのを覚えているから、たぶん初秋のころだったと思う。僕は、小さなブランコと鉄棒がある近所の公園に一人で練習にきていた。いつものように鉄棒の上に座り、真っ赤に染まった夕焼けの空を眺めていた時、ふいに「今日できなければ、一生できないかも」という衝動に襲われた。「チャンスは今日しかない。今日できなければ明日も明後日も無理。二度とチャンスはない」と、切羽詰まるような感覚だった。夕焼けと肌寒い空気が、そんな風に思わせたのかもしれない。よくはわからないけれど、背中側から誰かに決断を迫られているような、何か重いものにのしかかられているような、そんな感覚で小学生の僕の頭の中はいっぱいになっていた。

鉄棒の上で、葛藤の時間をしばらく繰り返した後、僕はついに意を決して「腰掛け後ろ回り(仮)」を実行した。僕の身体は、拍子抜けするほどあっさりと鉄棒を軸に回転して地面に着地した。うれしい、というよりも「なんだ、これならもっと早く挑戦すればよかった」の気持ちの方が強かったように思う。


芥川龍之介の「トロッコ」を読んだのは、中学生の時。この小説を読み終わった時、僕の頭のなかには「腰掛け後ろ回り()」に初めて挑戦した時のことが思い浮かんでいた。あの時、一人で鉄棒に腰掛けていた僕の気持ちと「トロッコ」の主人公が一人で夕闇の中を駆けている時の気持ちとの間には、どこかつながる部分があるように感じたのだった。


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