「夏と悲運 中原中也」読書の記憶(九十八冊目)


中学一年生の時の話。音楽の時間だった。授業が始まり、先生が教壇に立ち説明を始めた。ふいに先生と目があった。僕は、なんとなく苦笑いをした。特に何かがおかしかったわけでも、反抗的な態度を示したかったわけでもない。ただ先生と目があったのがなんとなく気まずかったので、反射的に口元緩めてしまったのだった。よくある話だと思う。

しかし音楽の先生は「それ」を見逃さなかった。あからさまに顔色を変え、僕に教室の前に出てきなさいと言った。そして教壇の前に立たせると「何がそんなにおかしいんだ」と言った。僕は「おかしかったわけではなくて、なんとなく笑ってしまいました」と答えた。正真正銘、これが素直な気持ちだった。 

先生は「何も面白くなくて、笑うわけがない」「何が面白かったのか説明しなさい」と追求してきた。どんなに追求されても、本当に意味がなかったのだから説明のしようがない。僕は、意味はありません、を繰り返した。

しかし先生は一向に納得しない。「理由もなく笑う人はいない」「先生はその理由が知りたい」「説明するまで授業はしません」と追求を続け、僕は「特に理由はありません」を繰り返すことになった。

何度かこの問答を繰り返した後、先生は「今日はもう授業する気分ではない。ここで終りにする」と授業の終了を宣言し、教科書を抱えて教室から出て行ってしまった。わずか10分くらいで授業が終わってしまった。教室には、奇妙な静けさだけが残った。

僕は、教室を出て職員室へ向かった。椅子に座っている先生のところに行き、「すみませんでした。授業をして下さい」と謝罪をした。 先生は「今日はもう授業をする雰囲気じゃないから終わり」と、全く相手にしてくれなかった。仕方なく僕は教室に戻った。みんなの前で、今日の授業はこれで終わりだと告げた。誰も何も言わなかった。そのまま時間が過ぎ、授業を終えるチャイムが鳴った。


夏と悲運 中原中也


唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイーすると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。 
(中略)

すると先生は、俺を廊下に立たせるのだつた。俺は風のよく通る廊下で、随分淋しい思ひをしたもんだ。俺としてからが、どう反省のしやうもなかつたんだ。(夏と悲運 中原中也より)


中原中也「夏と悲運」 を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。今ならば、先生がなぜ授業を中断したのか、わかるような気がする。多分僕は、先生に嫌われていたのだと思う。そしてあの先生は、大人になりきれなかった大人、だったのだと思う。


中原中也   月夜の浜辺 夏と悲運

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