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「頭ならびに腹 横光利一」読書の記憶(八十二冊目)

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待つのが吉か、移動するのが幸せか? レジの列に並ぶ時、自分が並んでいる列よりも隣の列の方が先に進みそうに感じることがある。 車を運転していて渋滞にぶつかった時、迂回できそうなルートに移動しようか、このまま待つか迷うことがある。 若い頃には「少しでも早い方が勝ち!」と、小まめに移動する方を選択することが多かった。ほんのわずかな差でも「こちらを選んで正解!」と感じる方へ即座に動いていた。 しかし、年齢を重ねて40代に突入したあたりから「多少の誤差ならば、待つのが吉」と(絶対的な確信がある場合を除いて)そのままの状態を維持することが多くなってきた。 これが「丸くなる」と、いうやつなのだろうか? 忍耐力が身についてきたのだろうか? 経験を積むことで洞察力が増し、効率重視の行動を慎むようになってきたのだろうか? ……いやたぶん、 体力が衰えて移動が「めんどう」になった からかもしれない。 「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」 (頭ならびに腹 横光利一より) しかし実際のところ「留まる」のと「移動する」のでは、 どちらが心地よい人生 になるのだろう?    「移動」は成功する場合もあるけれど、失敗することも少なくない。変化の刺激は気分転換になるけれど、その刺激は継続しにくい。 すると、多少の忍耐は必要になるけれど、 総合的には「留まる」方が、やや優勢なのではないか。  大抵はどっしりと構え、タイミングを見て蓄積した力で大きく動く。 鮮烈さは与えにくいが、深く刻みこむならばこちら だろう。 さて? さて? さて?  ( 頭ならびに腹 横光利一より) 年齢を重ねる ことで失うものが目につきやすいけれど、得られるものもきっとある。それまでとは手触りが異なった「何か」を、見つけられるようになる。 横光利一の「 頭ならびに腹」 を読みながら、そんなことを考えました。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「時間 横光利一」読書の記憶(八十一冊目)

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バケツリレー vs  個人 小学生の頃の話。子供会の行事の準備で、バケツリレーをすることになった。子供たちが一列に並び、小さなプールにバケツで水を満たしていくことになったのだった。 並んで待っていると、水の入ったバケツが運ばれてきた。子供たちは、次々に運ばれてくるそれを受け取ると隣の子供に手渡していった。大きなバケツもあれば、砂場で遊ぶ時のような小さなバケツもあった。そんな風にしてバケツが人の手を移動していく様子を見るのは楽しかった。自分がその中の一人になっていることも、照れ臭いような嬉しいような気分になった。 しばらく作業を続けていると、一人の男子が 「みんなで手渡しするよりも、一人で運んだほうが早いんじゃないか」 と言い出した。そして実際に、大きなバケツを持って水道とプールの間を行ったり来たりの奮闘を始めた。 その男子は、何度か往復した後「やっぱり疲れた」などと言うと、運ぶのやめて地面に座り込んでしまった。それを見ていた世話役の大人が「おお、がんばったなぁ」と声をかけた。 私はその様子を見て、 自分も一人で往復してみたかった 、と思った。その頃の私は、おとなしくしているグループだったし、まだひとりでバケツを運べるくらいの体力に自信がなかったから、そうやって自分の考えを実行に移せる姿が、どこかかっこよく見えたのかもしれない。 「時間 横光利一」 そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。( 時間 横光利一より) 横光利一「時間」 の中で、帽子を手渡しで運んでいる場面を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。あの時、一人で奮闘していた男子は、今どこで何をしているのだろう。なんとなく、子煩悩な父親になっていそうな気がする。いや逆に、子供には厳しい頑固オヤジになっているのかな。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「奥の細道 松尾芭蕉」読書の記憶(八十冊目)

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「や」で区切ると、俳句っぽい雰囲気になる。 中学校の野外活動に参加した時の話。スケジュールの中に「オリエンテーリング」があった。森の中をチームで歩き回り、指定のポイントを通過しながらゴールを目指していくアレだ。 その時設置されていたポイントのひとつに「今の状況を俳句にしなさい」と、いう課題があった。「俳句」と聞いて頭に浮かんだのが、国語の時間に目にした松尾芭蕉の 閑さや岩にしみ入る蝉の声 夏草や兵どもが夢の跡 だった。そこで私は 「~や」で一度切って、あとにリズムの良い言葉を並べれば「それっぽい」ものになるのではないか、と考えた。実際にやってみた。内容はともかくとして、なんとなく形になったような気がした。私が作った 俳句を見た友人が「いいね。オレのも作ってよ!」と言ってきた。私は、ああいいよ、と同じような出まかせの俳句を作った。友人は「いいね!」と特に内容も吟味せず、そのまま紙に書き込んで提出していた。 オリエンテーリングが終わり、宿舎前の広場で全体集会があった。先生が前に立ち講評を話している中で 「俳句を作る課題があっただろう。あとで国語の ○○ 先生に選んでもらって、優秀なものを発表するから」と言った。 「オレが書いてあげた俳句が選ばれたら、あいつはどうするのかな?」と思った。もしそうなった場合、彼は 「実はこれ、サトー君に考えてもらって … 」と正直に言いそうな気がした。あの当時は 「先生が教室に入ってくる前に 席に着いていなかった」程度のことで、頭に拳骨をもらうような時代だったから「 代筆がバレたら、ひどく殴られるのではないか」と考えると、背中のあたりがムズムズした。 野外活動が終わり、学校に戻った。何かの配布資料の中で「優秀な俳句」が発表になった。 当然、私の考えたものは選外だった。怒られる以前に、選ばれるレベルではなかったのだ。すべては杞憂。 まあ、そんなものである。 山寺の石段を上がりながら。 今年の春に山寺へ行った。 階段を上がっている時に「 閑さや〜」の句が頭に浮かんだ。そしてここに書いた事を思い出した。 同級生達は、今どこで何をしているのだろう。とりあえず、元気に過ごしていてほしいと思う。 関連: 湯殿山へ行く(旅日記)

「杜子春 芥川龍之介」読書の記憶(七十九冊目)

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コーヒーを断って、願掛けをした話。 20代後半だったと思う。その頃「達成したい目標」 があった私は「願掛け」をしようと考えた。 やることはやっていたつもりだったが、 そこにプラスアルファが欲しいと感じたのだった。 そこで思い浮かんだのが「昔の人は願掛けとして、塩断ち、 お茶断ちをした」という、何かの本で読んだ一文だった。 「塩断ち」は、現実的に実行するのが難しいと思った。しかし「 お茶断ち」ならできそうだ。自分 の場合は、お茶よりコーヒーを飲む方が多いので「 コーヒー断ち」にしよう。目標を達成した時に飲むコーヒーは、 きっと今までで最高の一杯になるに違いない。 そう考えて挑戦することにしたのだった。 コーヒー断ちを始めて、二ヶ月くらいが過ぎた時だった。 夏の陽射しが燦々と降り注ぐ、暑い一日だったことを覚えている。 その日、車のディーラーに用事があった私は、 しばらく営業の方と話をしてから外に出た。駐車場に止めておいた自分の車に乗り込んで出発した時、ふと気がついた。 「今オレ、出されたアイスコーヒーを飲んでしまった!」 話に夢中になって、 無意識のうちに出されたコーヒーを飲んでしまっていた。二ヶ月ぶりの一杯は、まったく「記憶も感動も残らない一杯」で終了してしまったのだった。 杜子春 芥川龍之介 「たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。 もし一言でも口を利いたら、 お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。 天地が裂けても、黙っているのだぞ(杜子春 芥川龍之介)」 芥川龍之介の「杜子春」には、仙人になるために「 何があってもひとことも話さない」試練に立ち向かう若者(杜子春)が登場する。 どんなに酷い目にあっても口を開かないその様子からは「 絶対に仙人になる」という強烈な意志が感じられる。ここまで耐えるのならば仙人になれるかもしれない、と思えてくる。 ところであの時私は「何を実現 したくて、コーヒー断ち をした」のだろう? そこそこ真剣だったはずなのだが、今ではすっかり忘れてしまった。そもそもその程度の目標だから、 あっさりと飲んでしまったのだろうと思う。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行  ...

「Little Red Riding Hood」読書の記憶(七十八冊目)

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「この本には、もっと価値があるはずだ」  予備校生だったころの話。友人が「古本屋に本を売りに行く」と言い出したので、一緒に行くことにした。目当ての古本屋は雑居ビルの地下一階にあった。私達は一列になって薄暗く狭い階段を降りて、本の壁に囲まれている店内の奥の方へと進んでいく。レジの横に憂鬱そうな表情を浮かべた店長らしき人が椅子に座って本を読んでいた。友人は持ってきた本を差し出す。即座に 提示された金額は(正確には忘れてしまったが)百円とか、そのくらいだったと思う。  「この本には、もっと価値があるはずだ」と憤慨した友人はそこで売るのを止めて「他の店へ行く」と言った。結局、他の店でも提示された金額は同じくらいだった。友人はその本を売るのを止めた。一緒にいた別の友人が「その方がいいかもね」と呟いた。  その日をきっかけに「古本屋」の場所を知った僕は、一人で古本屋めぐりをするようになる。 お世辞にも綺麗といえない店内に、紙と埃が混ざった独特の匂いが漂う狭い店内は決して快適ではなかった。 三十分もいると鼻の奥のあたりがムズムズしてきて、外の空気が恋しくなってくる。  それでも、窮屈な空間に身を縮めるようにしながら、 隠された宝物を探すみたいに本を漁っているのは楽しかった。当時の僕にとって、 至福の時間のひとつだったように思う。 仙台の古本屋が閉店  昨年(2017年)に、仙台のSという古本屋が閉店した。閉店セールをやっているというので出かけることにした。気になった本を数冊選びレジに向かう途中、通路に置かれたカゴの中に「Little Red Riding Hood」の復刻版が入っているのが目にとまった。装丁が気になったので、一緒に買って帰ることにした。  家に帰って読んだ。「このような話だったかな?」と思った。自分が覚えていたストーリーと少し異なっているように感じたからだ。もちろん、本が間違っているのではない。自分の記憶が間違っているのである。  記憶は曖昧だ。時間と共に誤解や勘違いなどが混ざり合い、さらに個人的なバイアスのかかった「それ」へと変容していく。変容を繰り返す過程で、多くの部分が消え去っていく。消え去った記憶が、戻ってくることは稀有である。最初から存在しなかったかのように、新しい記憶に...

「兄たち 太宰治」読書の記憶(七十七冊目)

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「森羅万象」の読み方は? 高校生の時の話。私は数人の同級生と街中を歩いて移動していた。店頭に貼られているポスターが目にとまった。何かのイベント告知をするポスターだったと思う。私はそこに大きく印刷されていた「森羅万象」という文字を「もりらまんぞう」と声に出して読んだ。もちろん「しんらばんしょう」と読む事は分かっていた。ただ何となく、ふざけてそう読んだのだった。 すかさず、その時一緒に歩いていた女子の一人が「シンラバンショウ、でしょう!」と、私の言葉を修正した。私は「あ、そう読むんだ」と彼女に言った。正しい読み方を知らなかった、という素振りをしたのだった。彼女は何も言わなかった。私たちは目的地に向かって移動を再開し、誰かが別の話題を口にして、その話はそこで終わりになった。 なぜ、あの時私は「知ってるよ!」と反論できなかったのだろう? 彼女が、少し大きめの声で早口に指摘してきたからだろうか。その時一緒に歩いていたグループの中では、彼女がダントツで成績が良かったから「どうせ、オレは頭が悪いですよ」と、自虐的な感情が湧き上がってきたからなのか。高校生の頃の、なんとなく女子に尻込みしてしまうというか、照れてしまうというか、そんな感情のせいなのか。 「兄たち 太宰治」 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。 (兄たち  太宰治 ) あの時自分は「正しい答えを知っていること」を伝えたほうがよかったのだろうか。「参りました! 」などと、大袈裟におどけてみせればよかったのか? そう、もしかすると彼女は「それ」を期待していたのかもしれない。 ……いや、違う。それはない、と思う。何かのテストに出題された時、私が「モリラマンゾウ」と解答したら可哀想だから、と間違いを指摘してくれたのだろう。たぶん、それだけのことなのだと思う。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「太宰治との一日 豊島与志雄」読書の記憶(七十六冊目)

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深夜(22時)の電話 少し前の話。その時私は自宅で一人作業をしていた。知り合いのSさんから「今大丈夫ですか?」とメールが届いた。まもなく22時になるところだった。S さんからその時間帯に相談を受ける事は滅多にないので、何かあったのだろうか? と、こちらから電話をかけてみることにした。 「仕事で色々あって。なんだかほんとにごちゃごちゃして」 S さんは、ここ数日の間のできごとを話し始めた。しかし数分もすると、話題は別のものに変わっていた。結局 30 分ほど話をしたと思う。Sさんは、なんとなく軽やかな声になって電話を切ったのだった。 「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。 (中略) 然し、愚痴をこぼしに来たと言いながら、それだけでもう充分で、愚痴らしいものを太宰は何も言わなかった。──その上、すぐ酒となった。 (太宰治との一日  豊島与志雄より一部抜粋) おそらくSさんは、誰かと話をしたかったのだと思う。夜遅い時間になっていたけれども、私ならば、この時間でも何かしていることが多いので大丈夫だろう、と思って連絡を寄越したのだと思う。 明確なアドバイスが必要な時もある。厳しく批評されることで考えがまとまることもある。それでも「ただ自分の話を聞いてくれる相手がいる」ことを確かめるだけで、大抵の出来事は乗り切れるのではないか。 話を聞いたり、聞いてもらったり、そんな相手がいてくれるのなら百人力なのだと思う。 「 太宰治 との一日  豊島与志雄」を読んでそんなことを考えました。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「一問一答 太宰治」読書の記憶(七十五冊目)

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「佐藤さんのように、成功した人の場合は・・・」 セミナーの依頼を受けた時の話。事前に内容について打ち合わせがしたいとの事で、指定された場所へ出かけていった。先方は二名で、こちらは私一人。合計三人で打ち合わせが進んでいった。 担当の方がしっかりと準備をしてくださっていたので、私たちは滞りなく内容を詰めていくことができた。一通り打ち合わせが進み、最後にセミナーの告知に使用する文章を考えて欲しいということになった。担当の方は、資料を広げながら、 「佐藤さんのように成功した人の場合は … 」と話を始めた。 「成功した人?」 私は「成功した人」という言葉に反応した。自分が成功しているとは微塵も考えていなかった。成功という定義にも色々なものがあるけれども、お世辞にも自分がどこかの分野で成功しているとは思えなかった。 もしかすると、私の話し方に「成功している人」を装うような鼻についた態度があったのではないか? そもそも自分のような「成功していない人間」が講師として依頼を受けるということが間違っていたのではないか、と恐縮してしまったのだった。 「太宰治 一問一答」 ばかに、威張ったような事ばかり言って、すみませんでした。 (太宰治 一問一答より) 太宰治 の「一問一答」を読んだ時に、ここに書いたことを思い出した。なるべく自分のことを話す時には「威張ったことを言わないように・・・」と心がけているけれど、それでもついつい調子に乗ってしまい、最後には「すみませんでした」という気分になることも少なくない。と、いうかほぼ毎回そういう気分になるのだった。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「かえるの王さま グリム兄弟」読書の記憶(七十四冊目)

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いまから十年ほど前、休日に釣りに行った時の話。目的地の池に到着し、釣り場へ向かって徒歩で移動していると、目の前に小川が立ちはだかった。ほんの100mほど横に移動すれば橋があったけれども、時間がもったいないし何よりも早く先に進みたかったので、その小川を飛び越えることにした。さほど川幅も広くないし、十分に飛び越えられると思ったのだ。 僕は、持っていた釣竿や道具を向こう岸に向かって投げた。身軽になった状態で少し助走つけて勢いをつけて踏み切った。その瞬間だった。何故か僕の頭の中に一瞬迷いが生じた。ある程度余裕で飛び越えられると思うけれど、もしかしたら失敗するかもしれない。ギリギリで川に落ちてしまうかもしれない。そんな考えが頭の中を通り過ぎたのだった。 心の微妙な動きは、想像以上に身体に影響を与えるものである 。 躊躇した僕は、踏み切りのタイミングでバランスを崩してしまった。あっ! と一瞬で頭の中がぐるぐると回転し、これはダメだ、と考えるのとほぼ同時に 片足を川の中に落としてしまったのだった。ほんとうにギリギリで落ちてしまっていた。もし躊躇しなければ両足で陸地に着地できたことは確実だった。 幸いに川底まで 浅かったし、片足は陸に届いていたので被害自体は少なかったものの、予想以上に精神的ダメージを感じている自分がいた。そして 「どんな小川でも、飛び越えるのはもうやめよう」と固く誓ったのだった。 これでおひめさまは、すっかり腹が立ちました。そこでいきなりかえるをつかみ上げて、ありったけのちからで、したたか、 壁 にたたきつけました。 (かえるの王さま より) この場面を読んだ時、ふと川に落ちた時のことを思い出した。王女様が、パニックを起こした時の精神状態と、僕が川に落ちてしまうことを確信して混乱した時の精神状態に、似ている部分があったのかもしれない。ただ大きく異なるのは、おひめさまは王子を手にいれたけれど、僕は濡れた靴を手に入れただけ、ということだった。

「猫の事務所 宮沢賢治」読書の記憶(七十三冊目)

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小学四年生の時の話。国語の時間だった。担任のS先生が、教科書に掲載されている小説の一段落を読み上げた。そしてその中の一文を黒板に書くと「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と、僕たちに質問をした。 何人かが答えた後、僕も指名された。僕は「作者は『動物達が踊っているように見えた』と言いたかったのだと思います」と答えた。先生は「あー、そう。次、〇〇さん」というように、特に良いとも悪いともなく授業は進み、次に当てられた生徒が答えたところで、その日の国語の授業は終わりになった。 数日後の国語の時間。S先生は前回と同じ部分を読むと 「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と質問をした。 僕は(この前の授業で自分の感想は言ったから、今回はいいだろう)と手を上げずに黙っていることにした。するとT君が、すっ、と手を上げるのが見えた。そして「作者には、動物たちが踊っているように見えたのだと思います」と言った。そう、前回僕が言った内容と同じ事を繰り返したのだった。 ところが先生の反応は、僕の時の「それ」とは違っていた。先生は「おお!それは、なかなか面白い読み方だね。うん、面白い!」とT君の感想を絶賛した。僕は、あれ? と思った。小学四年生の僕でも明らかにわかるほど、S先生の反応は僕の時の「それ」とは何かが決定的に異なっていたのだ。 僕は「前回、僕も同じことを言ったよ!」と主張しようと思いながらも、そのまま黙っていた。小学生の僕の頭の中には、悲しみとも怒りとも表現できないような感情が渦巻いていて、どうすればよいのかわからなかった。先生は黒板に「動物達が、踊っているように見えた」と大きく書いた。そして、これはいいなあ、とまたT君を褒めた。 その時だった。 クラスの中でも元気な女子の一人 が「それって、このまえ佐藤君も同じことを言ってたよ」と先生に向かって言った。そして僕に「そうだよね」と同意を求めてきた。僕は、うん、とうなづいた。先生は、そうか? と僕に背を向けたまま言った。 猫の事務所 宮沢賢治 「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、 遺骸 は水葬せらる。」一番書記の白猫が、 かま 猫の原簿で読んでゐます。 かま 猫はもうかなしくて、かなしくて 頬 のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つ...

「注文の多い料理店 新刊案内 宮沢賢治」読書の記憶(七十二冊目)

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「犬が走って、こちらへやってきた」 今あなたの頭の中には「犬」の姿が思い浮かんだことだろう。それは自分の家で飼っている犬であったり、友人や知人の犬、もしくは歩いてる途中に見かけた散歩中の犬、今までに様々なところで出会ってきた犬が、思い浮かんだと思う。 さらに、犬が好きな人ならば「かわいい」「楽しそう」「きっと耳を寝かせながら、跳ねるようにして、一生懸命にこっちに向かっているんだろうな」などと、楽しい感情がわき起こっているだろう。 犬が苦手な人ならば、過去に犬が苦手になった体験を思い出して、「走ってきたから逃げなくちゃ」「怖いなぁ」というような感覚を思い起こしているだろう。「やっぱり私は猫がいいな」と考える人もいるだろう。 「犬が走って、こちらへやってきた」 全く同じ一文であったとしても、頭の中に浮かぶイメージは、十人いれば十人が異なる。 言葉は過去の記憶とつながってできているから、同じ過去の記憶を持った人は存在しない。それらのフィルターを通して広がっていくイメージと感情が「まったく同じ」になることはありえないからだ。 イーハトヴは一つの地名である。(中略)じつにこれは 著者の心象 中に、このような 状景 をもって 実在 した ドリームランドとしての日本岩手県である 。 (注文の多い料理店 新刊案内 より一部抜粋)   この童話集の一列は実に作者の心象スケッチ の 一部 である。 (同) 宮沢賢治の「 注文の多い料理店 新刊案内」の中に、このような部分がある。 学生の頃にこの文章を読んだ時は、あまり意味がわからなかった。つまりこれは賢治の空想の世界ということなのか。 それとも賢治だけに見える特殊な世界なのか、いや答えなんて何もなくて「作品」としてこの言葉自体を楽しみ、思考を試みるところに意味があるのか、そんなことを考えていた。 これらはけっして 偽 でも 仮 空でも 窃盗 でもない。 多少 の 再度 の 内省 と 分析 とはあっても、たしかにこのとおりその時 心象 の中に 現 われたものである。 (同) そして、今、私はこんな風に考えている。 賢治 が現実の世界に目を向け、それに対して考察を行った時、賢治のフィルターを通して取り込んだ彼の頭の中には「ドリームランド」が映っていたのだと思う。 作者はそこに感...

「月夜の浜辺 中原中也」読書の記憶(七十一冊目)

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私はあまり物を処分する方ではない。一度手に入れたもの、いただいたものは使わなくなっても整理して保管しておくほうである。普段はそれでも特に問題はない。しかし、引っ越しの時などは「どれを処分し、どれを保管しようか」と、しばらく悩むことになる。 引っ越しは「量」で料金が決まるから、捨てられないものが増えれば増えるほど料金がかかってしまう。追加費用をかけてまでも、運ぶ価値があるものなのか? と自問自答しつつも結局処分できずに段ボールが増えていく。 いや、もう少し考えてみよう。 何も感じないものは即座に処分できるし「とりあえず今は必要がないけれど、いつか使う時がくるかもしれない」と保管しておくこともない。どちらかというと、さっさと処分してしまう。それを必要としている知人がいれば「保管しておくよりも、使ってもらった方が物も喜ぶだろう」と譲ってしまう。 でも、自分が「これはとっておこう」と考えたものを処分しなければならない時は(それが一枚のパンフレットだったとしても)どこか自分の大切にしていた部分が、大きく損われてしまうような気分になってしまう。誰かが土足で入り込んできて外に運び出され、どこかの地面に、乱暴に放り投げ出されたような気分になる。 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。 月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか? 中原中也 月夜の浜辺 より(一部抜粋) 「それ」を処分することができないのは「それ」を手に入れた時の記憶を、残しておきたいからなのだと思う。手に入れた時の自分と、そばにいた人のことを、今でも大切に想っているからなのだと思う。 中原中也      月夜の浜辺   夏と悲運

「雨の上高地 寺田寅彦」読書の記憶(七十冊目)

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「はじめて来たのに、なぜか懐かしい風景」などというと、観光案内のキャッチコピーみたいだけれども、僕にもそのような気分になった風景がいくつかある。 その一つが長野県の上高地である。大正池でバスを降り、ポクポクと足音を鳴らしながら木道を歩いていく。やがて視界が開け目の前に広がる河原へと降り、しゃがんで梓川の水に手を浸した時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来たぞ!」だった。本来ならば初めてやってきたのだから「やっと、来たぞ!」が適切な表現である。しかしその時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来た」だったのである。 今までに、雑誌や写真などで上高地の風景を眺めていたから、そう思ったのかもしれない。いろいろな場所を山歩きしてるうちに、どこかで目にした風景と記憶が混ざってしまったのかもしれない。 理由はいくつかあると思う。それでも説明できない衝動的な感覚で「自分は、前にもここに立ったことがある」と感じてしまったのだった。 行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に 藍灰色 の 帷帳 を垂れたように見えている。幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。(雨の上高地 寺田寅彦より) 寺田寅彦の「雨の上高地」を読んだ時、あの時の風景が頭の中に蘇った。僕が上高地に行った時は、雨ではなく晴天の1日だった。空からまっすぐに降り注いでくる太陽の光と、山の間から注がれてくる冷たく、そして透明な水のピリッとした肌触り。そして深呼吸をすると指先にまで染み渡っていくような清廉な空気。あそこは今でも「別世界への入口」なのかもしれない。 寺田寅彦      夏目漱石先生の追憶   雨の上高地

「はじめてのおつかい 林明子」読書の記憶(六十九冊目)

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小学1年生の時の話。いやもしかしたら幼稚園の時だったかもしれない。記憶が曖昧だけれども、たぶん小学1年生の時の話だったと思う。 母親から、肉屋に買い物へ行くように頼まれた。まさに「はじめてのおつかい」というやつである。母親は僕に「今日はカレーを作るから、お肉を買ってきて」と説明したあと「牛肉のカタロース300 グラムください」という台詞を覚えさせた。僕は、それを何度も繰り返しながら、一人で歩いて近所の肉屋に向かった。 肉屋のカウンターに到着した僕は、そこに立っている店員を見上げるようにして「牛肉のカタロース300グラムください」と呪文を唱えるように言った。この呪文を唱えさえすれば、僕の役割は終了だ。あとは店員から肉の入った袋を受け取って帰るだけのはず。僕は手の中にあるお金を確認しながら、店員の返事を待っていた。 店員は僕に向かって「牛肉の肩ロース?何を作るの?」と聞いてきた。僕はカレーを作ると答えた。店員は「カレー? 豚じゃなくて牛でいいの?」と尋ねてきた。 当時の僕は、カレーに牛肉と豚肉のどちらを使うのかなんて全くわからなかった。何と返事をすればよいかさえ、わからなかった。仕方がなく僕は「牛肉のカタロースください」と、母親から教わった言葉を繰り返した。 店員は、大丈夫かしら? と言うような表情をしてから「お母さんは?」と僕に聞いた。僕は、いないと答えた。その店員が横のほうにいた他の店員と「この子、カレーを作るのに牛の肩ロースが欲しいって言ってるんだけど。豚じゃないのかね?」と話しているのが聞こえてきた。 僕は次第に、もしかして「牛肉のカタロース」と言う言葉が間違っていたのじゃないかと思い始めてきた。もしかしたら「豚肉のカタロース」だったかもしれない。どうしよう。でも確かにここまで歩いてくる途中、ずっと「牛肉のカタロース」と言い続けてきたはずだ。しかしもうすでに自信はない。「豚肉のカタロース」だったような気もしてくる。 結局その店員は「牛肉のカタロース」の入った袋を渡してくれた。「もし豚だったら交換するから、レシートと一緒に持ってきて」とも言ってくれた。僕は袋を持って家に帰った。急いで帰った。そして母親に「牛肉のカタロースを買ってきたけどこれでいいんだよね」と聞いた。母親はそれでいいんだよと答えた。ああ、やっぱり間違...

「漱石先生臨終記 内田百間」読書の記憶(六十八冊目)

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前回 、私が進学塾の先生をしていた、ということを書いた。書き終えてから、あらためてその当時のことを思い返してみると、授業していた時の事よりも生徒と雑談をしていた記憶の方が多いことに気がついた。 授業が終わると、たいてい何名かの生徒が私の机の横に来て何やかやと話をしていった。わからないところを質問に来る生徒もいないわけではなかったけれども、ほとんどの生徒が意味のないような雑談をして帰っていくのだった。 ある日の授業の後のできごとだった。帰り際に、三人の女子生徒が「先生さようなら!」と挨拶をしてきた。その時私は書類を書いていたので、そのまま顔を上げずに「さようなら」と答えた。すると生徒の一人が「先生、次に会うのは一週間後なのだから、ちゃんとこちらを見て挨拶をしてください」と言った。私は、あわてて顔を上げると、その子達に向かってさよならと言った。三人の女子は顔を見合わせるようにして、ニヤニヤと笑った。そして、手を顔の横で振りながら、さようならと帰って行った。 私は、来週あの子たちが教室にやってきたならば「こんにちは!」と大袈裟に挨拶してやろうと思った。実際に言ったかどうかは忘れてしまった。多分、思っただけで実行はしなかったように思う。 「何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事ができなかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入した人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談も云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持ちが取れなかった。 (漱石先生臨終記 内田百間 より一部抜粋)」 馴染める生徒は、すぐに馴染める。初めての授業の後でも、普通に話しかけてくる生徒もいる。でも馴染めない生徒は、何回授業してもなかなか馴染めない。授業が気に入らないのかな、面談の時に保護者に話を伺ってみると「先生の授業は楽しいと言っていました」と、それなりに気に入ってくれていたりもする。もちろん、その逆の場合もある。なかなか難しい。しかし、このあたりに気を配っておかないと、授業の雰囲気にも関係したりすることがあるので、おろそかにすることはできない。先生は先生で、それなりに気を使っているのだ。...