「雨の上高地 寺田寅彦」読書の記憶(七十冊目)
その一つが長野県の上高地である。大正池でバスを降り、ポクポクと足音を鳴らしながら木道を歩いていく。やがて視界が開け目の前に広がる河原へと降り、しゃがんで梓川の水に手を浸した時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来たぞ!」だった。本来ならば初めてやってきたのだから「やっと、来たぞ!」が適切な表現である。しかしその時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来た」だったのである。
今までに、雑誌や写真などで上高地の風景を眺めていたから、そう思ったのかもしれない。いろいろな場所を山歩きしてるうちに、どこかで目にした風景と記憶が混ざってしまったのかもしれない。理由はいくつかあると思う。それでも説明できない衝動的な感覚で「自分は、前にもここに立ったことがある」と感じてしまったのだった。
行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に藍灰色 の帷帳 を垂れたように見えている。幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。(雨の上高地 寺田寅彦より)