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「名人伝 中島敦」読書の記憶(八十六冊目)

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バットに当てるだけなら、 どんなに速い球でも当てられる。 大学生だった時の話。友人達とバッティングセンターへ行くことになった。それぞれが適当に楽しんでいると、元野球部のK君が「一番速い球を打ちたい」と言い出した。 僕たちはK君に付いていき、そこのバッティングセンターで、一番早いマシンの所へ行った。詳しい球速は忘れてしまったが素人の僕たちから見ると、シュンという音は聞こえるものの、ほとんど球が見えないような速さに感じられた。 K君は素振りをすると、おもむろに硬貨を投入した。マシンから放られた球に向かって何度かバットを振った。すべて空振りだった。「やっぱり現役の時とは違うなぁ」とK君はぼやいた。 友人の一人が「こんなの本当に打てるの? バットに当たる感じすらしないんだけど」と、少し挑発気味に言った。K君は 「当てるだけなら、いくらでも当てられるよ」 とバントの構えをすると、飛んできた打球をバットに当てた。金属バットのコーンという音がした。 「おお、本当に見えているんだ!」  僕たちは歓声を上げた。K君は、だから当てるだけなら当てられるんだって、と繰り返すとバットを持ち直した。初回の球数が終わった。K君は躊躇せずに硬貨を追加した。その回も終わりに近づき始めたころ、何球かバットに当たるようにはなってきたものの、そこから快音が聞こえることはなかった。 K君が外に出てくると、入れ替わりで別の人がボックスに立った。僕たちよりもやや歳上に見える、がっしりとした体格の人だった。その人は、数回ゆったりとしたフォームで素振りをした。硬貨を投入した。カキーン、カキーンと、いいペースで球を打ち始めた。 打てる人には打てるんだなあ、 と誰かが言った 。 「名人伝 中島敦」 視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとくなったならば、来って我に告げるがよいと。(名人伝 中島敦より) 名人伝の紀昌は、弓矢の師匠から「小さなものが、大きく見えるようになるまで修行をするように」と告げられる。紀昌は三年の修行の結果、 ある日ふと気が付くと、 窓の虱が馬のような大きさに見えていた。 (名人伝 中島敦より)  ことに気がつく。厳しい修行の成果で、微かなものが大きなものに見える「目」を習...

「葉 太宰治」読書の記憶(八十五冊目)

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背が高い人は、他の人よりも頭を下げなければいけない 小学六年生の時の話。僕たちは、体育館で卒業式の予行練習をしていた。全員で椅子から立ち上がり、正面に向かって一礼した時だった。ある先生が、僕のところにやってきて背中をトントンと叩いて言った。  「あんた、背が大きいのだから、他の人よりも深く頭を下げないとダメなんだよ」  その当時の僕は、わりと身長が高い方だった。たしか、学年で三番目くらいの身長だったと思う。いや五番目だったかもしれない。とにかくその先生は、僕の頭を下げる角度が浅いので「遠くから見ると、あんたの頭だけが上に飛び出ているように見えた」と注意にやってきたのだった。 僕は、その先生の前で立ったまま一礼を繰り返した。地面に向かって90度というよりは、135度よりも深く。先生から「良し」をもらうには、自分が想像していたよりも、ずっとずっと深く頭を下げなければいけなかった。   「背が高いと偉そうに見えるから、他の人よりも頭を下げないといけないんだよ」 それ以来僕は、自分の身長を気にするようになった。背が高いと偉そうに見える。先生に注意される原因にもなる。できるだけ頭を下げて、目立たないようにしなければならない。自分が思っているよりも、深く深く頭を下げなければいけない。背が高いということは、色々と周囲に気を配らなければいけない。小学校の時の僕は、そう体験から学んだのだった。 お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい 。 太宰治「葉」より 太宰治の「葉」 を読んだ時にこの時のことを思い出した。僕が少し猫背気味なのは、あの時先生に注意されたことが原因なのかも、しれなく、もない。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「真空溶媒(Eine Phantasie im Morgen) 宮澤賢治」読書の記憶(八十四冊目)

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私が、会社を辞めた時の話 会社を辞めた時の話。退社願いを提出した時には、確固たる思いがあった。主観的にも客観的にも「自分はこの会社を辞めるべきである」という理由が揃っていると考えていたから、 全く迷いがなかった 。 ところが予定の退社日が近づき、二週間を切ったあたりから、少しずつ心の奥のほうにざわざわとする感覚が芽生えてきた。作業の手を止めて見慣れた社内を見渡すと、そこには一緒に仕事をしてきた仲間達がいる。 自分がこの会社を辞めてこの場所からいなくなったとしても、彼らはこうやって仕事を続けていくのだ 、と考えると不可思議な感じがした。私はもうこの会社にいる意味がない、と考えている。しかし彼らはまだ「ここで働こう」と選択している。同じ場所にいるというのに、私たちの間には大きな溝がある。 しかしよくよく考えてみれば私自身も、それなりの手間をかけてこの会社の入社試験を受け、それなりに仕事をこなして、それなりに時間を積み上げてきた。ささやかだが、評価を得ることもできた。退社するという事は、そのような 積み重ねてきた時間を全てリセットすることになる。 築き上げてきた仲間たちとの関係も切り捨ててしまうことになる。たぶん私は「寂しさ」を感じていたのだ。そう、このざわざわは「寂しさ」なのだ。 しかし、今までの人生を思い返してみても「寂しい」というような感覚になった事は、ほとんどなかったように思えた。忘れてしまっているだけなのかもしれないが、子供の頃から過ぎ去っていくこと、失ったものに対して気持ちを向ける事は、さほど多くなかったと思う。親の仕事の都合で引越しをしたり、転校を繰り返した経験も影響しているのかもしれない。 それでも今、 自分は「寂しい」という気分を感じている。 どうしてなのだろう? これが年齢を重ねると言うことなのか? いやまさか、どうなのだろう? 仕事終えた私は、車に乗って帰宅の道についた。駐車場を出て、この道を通るのもあと数回だな、などと考えた。カーステレオの再生ボタンを押して、ボリュームを少しあげた。何十回と繰り返し聞いたアルバムの一曲が、頭の中に飛び込んできた。 文字通り、飛び込んできた。 私は、車のハンドルを指で叩きながら、曲に合わせて歌詞を口ずさんだ。まあ、なんとかなる、と思った。なんとかなる。 いや、な...

「報告 宮澤賢治」読書の記憶(八十三冊目)

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新幹線の中から、虹が見えた日 大学を卒業した時の話。私は新幹線に乗って実家のある仙台市に向かっていた。まだ就職も決まっていなかったし、これからどのような方向に進むかさえも決まっていなかった。アパートを引き払って 実家に帰る事に決めたのは自分自身だったけれど、 本当にこれでいいのか 、もう少し東京で粘ってみたらよかったのではないか、などと色々なことを考えていた。 わざわざ駅の改札まできて、見送ってくれた大学の友人と別れたばかりということも物寂しさをいっそう強くしていた。今後「彼らと絶対に会う事はない」というわけではないけれども、次に会うのはいつになるかわからない。 確かに、東京と仙台は新幹線で二時間もあれば移動はできる。でも、そういうことではない。 みんなと私の間には見えない境界線が、しっかりと引かれてしまっている 。すでに借りていたアパートの鍵は不動産屋に返してしまった。 あの部屋に入って眠ることは、もう二度とない のだ。 私は、そんなことを考えながら、一人で新幹線のシートに座っていた。本を読むわけでも音楽を聴くわけでもなく、ただ一人で座っていた。 福島を過ぎて、宮城に入る直前だった。近くの席から 「虹だよ!」 という弾んだの声が聞こえてきた。私は反射的に窓の外を見た。そこには、空に向かって立ち上がる虹の姿があった。 さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました もう一時間もつづいてりんと張つて居ります 宮澤賢治「報告」 宮沢賢治の「報告」 を読んだ時、あの時の情景が頭の中に浮かんだ。あれは確かに「りん」と張っている、美しくも力強い虹だった。 宮澤賢治    銀河鉄道の夜   よだかの星   セロ弾きのゴーシュ   ポラーノの広場   革トランク   グスコーブドリの伝記   風の又三郎   春と修羅 序   春   注文の多い料理店 新刊案内   猫の事務所   報告   真空溶媒

「頭ならびに腹 横光利一」読書の記憶(八十二冊目)

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待つのが吉か、移動するのが幸せか? レジの列に並ぶ時、自分が並んでいる列よりも隣の列の方が先に進みそうに感じることがある。 車を運転していて渋滞にぶつかった時、迂回できそうなルートに移動しようか、このまま待つか迷うことがある。 若い頃には「少しでも早い方が勝ち!」と、小まめに移動する方を選択することが多かった。ほんのわずかな差でも「こちらを選んで正解!」と感じる方へ即座に動いていた。 しかし、年齢を重ねて40代に突入したあたりから「多少の誤差ならば、待つのが吉」と(絶対的な確信がある場合を除いて)そのままの状態を維持することが多くなってきた。 これが「丸くなる」と、いうやつなのだろうか? 忍耐力が身についてきたのだろうか? 経験を積むことで洞察力が増し、効率重視の行動を慎むようになってきたのだろうか? ……いやたぶん、 体力が衰えて移動が「めんどう」になった からかもしれない。 「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」 (頭ならびに腹 横光利一より) しかし実際のところ「留まる」のと「移動する」のでは、 どちらが心地よい人生 になるのだろう?    「移動」は成功する場合もあるけれど、失敗することも少なくない。変化の刺激は気分転換になるけれど、その刺激は継続しにくい。 すると、多少の忍耐は必要になるけれど、 総合的には「留まる」方が、やや優勢なのではないか。  大抵はどっしりと構え、タイミングを見て蓄積した力で大きく動く。 鮮烈さは与えにくいが、深く刻みこむならばこちら だろう。 さて? さて? さて?  ( 頭ならびに腹 横光利一より) 年齢を重ねる ことで失うものが目につきやすいけれど、得られるものもきっとある。それまでとは手触りが異なった「何か」を、見つけられるようになる。 横光利一の「 頭ならびに腹」 を読みながら、そんなことを考えました。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

年齢について、考えてみる。(番外編)

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芥川龍之介(35歳) 宮沢賢治 (37歳) 太宰治(38歳) 三島由紀夫(45歳) 夏目漱石(49歳) さて、ここに並べた 文豪の年齢が何を表しているか 、お分かりでしょうか? (30代が3名に、40代が2人。何か法則のようなものでもあるのだろうか? いや、それとも・・・)  はい。では、考えてみてください。制限時間は「3秒」 ↓↓↓ 3    ↓↓2         ↓1         ↓0! 時間切れです・・・さあ、答えは? (答)亡くなった年齢 学生のころ教科書で見た芥川の写真は知的で思慮深くて、だいぶ年齢が上に見えました。バーの椅子に腰掛けている太宰は大人びていて「作家先生」という趣が感じられました。このように年齢を重ねていきたいものだ。 そう思わせる雰囲気がありました。 そして気がつくと私は、 彼らが亡くなった年齢をとうに追い越していました 。しかし残念ながら、外見も内面も彼らとは雲泥の差です。渋みも深みもありません。そして40代に入ると、時間の速さは加速度を上げていきます。個人的体感でいうと、30代の1.35倍ほどの速さで過ぎるように感じられます。この調子でいくと漱石が亡くなった年齢まで、あっという間なのではないか? 自分と文豪を比較するのはおこがましいですけれども「これはもう、うかうかしていられない」と、しみじみ思ったのでした。 芥川龍之介と宮澤賢治 20代の時の文体 或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。(芥川龍之介 蜜柑) 文章を読んでいると、主人公が居る情景が頭に浮かんでくる理知的で端正な文体。この作品を書いたときの 芥川龍之介は27歳。 カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。(宮沢...

「時間 横光利一」読書の記憶(八十一冊目)

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バケツリレー vs  個人 小学生の頃の話。子供会の行事の準備で、バケツリレーをすることになった。子供たちが一列に並び、小さなプールにバケツで水を満たしていくことになったのだった。 並んで待っていると、水の入ったバケツが運ばれてきた。子供たちは、次々に運ばれてくるそれを受け取ると隣の子供に手渡していった。大きなバケツもあれば、砂場で遊ぶ時のような小さなバケツもあった。そんな風にしてバケツが人の手を移動していく様子を見るのは楽しかった。自分がその中の一人になっていることも、照れ臭いような嬉しいような気分になった。 しばらく作業を続けていると、一人の男子が 「みんなで手渡しするよりも、一人で運んだほうが早いんじゃないか」 と言い出した。そして実際に、大きなバケツを持って水道とプールの間を行ったり来たりの奮闘を始めた。 その男子は、何度か往復した後「やっぱり疲れた」などと言うと、運ぶのやめて地面に座り込んでしまった。それを見ていた世話役の大人が「おお、がんばったなぁ」と声をかけた。 私はその様子を見て、 自分も一人で往復してみたかった 、と思った。その頃の私は、おとなしくしているグループだったし、まだひとりでバケツを運べるくらいの体力に自信がなかったから、そうやって自分の考えを実行に移せる姿が、どこかかっこよく見えたのかもしれない。 「時間 横光利一」 そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。( 時間 横光利一より) 横光利一「時間」 の中で、帽子を手渡しで運んでいる場面を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。あの時、一人で奮闘していた男子は、今どこで何をしているのだろう。なんとなく、子煩悩な父親になっていそうな気がする。いや逆に、子供には厳しい頑固オヤジになっているのかな。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「奥の細道 松尾芭蕉」読書の記憶(八十冊目)

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「や」で区切ると、俳句っぽい雰囲気になる。 中学校の野外活動に参加した時の話。スケジュールの中に「オリエンテーリング」があった。森の中をチームで歩き回り、指定のポイントを通過しながらゴールを目指していくアレだ。 その時設置されていたポイントのひとつに「今の状況を俳句にしなさい」と、いう課題があった。「俳句」と聞いて頭に浮かんだのが、国語の時間に目にした松尾芭蕉の 閑さや岩にしみ入る蝉の声 夏草や兵どもが夢の跡 だった。そこで私は 「~や」で一度切って、あとにリズムの良い言葉を並べれば「それっぽい」ものになるのではないか、と考えた。実際にやってみた。内容はともかくとして、なんとなく形になったような気がした。私が作った 俳句を見た友人が「いいね。オレのも作ってよ!」と言ってきた。私は、ああいいよ、と同じような出まかせの俳句を作った。友人は「いいね!」と特に内容も吟味せず、そのまま紙に書き込んで提出していた。 オリエンテーリングが終わり、宿舎前の広場で全体集会があった。先生が前に立ち講評を話している中で 「俳句を作る課題があっただろう。あとで国語の ○○ 先生に選んでもらって、優秀なものを発表するから」と言った。 「オレが書いてあげた俳句が選ばれたら、あいつはどうするのかな?」と思った。もしそうなった場合、彼は 「実はこれ、サトー君に考えてもらって … 」と正直に言いそうな気がした。あの当時は 「先生が教室に入ってくる前に 席に着いていなかった」程度のことで、頭に拳骨をもらうような時代だったから「 代筆がバレたら、ひどく殴られるのではないか」と考えると、背中のあたりがムズムズした。 野外活動が終わり、学校に戻った。何かの配布資料の中で「優秀な俳句」が発表になった。 当然、私の考えたものは選外だった。怒られる以前に、選ばれるレベルではなかったのだ。すべては杞憂。 まあ、そんなものである。 山寺の石段を上がりながら。 今年の春に山寺へ行った。 階段を上がっている時に「 閑さや〜」の句が頭に浮かんだ。そしてここに書いた事を思い出した。 同級生達は、今どこで何をしているのだろう。とりあえず、元気に過ごしていてほしいと思う。 関連: 湯殿山へ行く(旅日記)