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「頭ならびに腹 横光利一」読書の記憶(八十二冊目)

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待つのが吉か、移動するのが幸せか? レジの列に並ぶ時、自分が並んでいる列よりも隣の列の方が先に進みそうに感じることがある。 車を運転していて渋滞にぶつかった時、迂回できそうなルートに移動しようか、このまま待つか迷うことがある。 若い頃には「少しでも早い方が勝ち!」と、小まめに移動する方を選択することが多かった。ほんのわずかな差でも「こちらを選んで正解!」と感じる方へ即座に動いていた。 しかし、年齢を重ねて40代に突入したあたりから「多少の誤差ならば、待つのが吉」と(絶対的な確信がある場合を除いて)そのままの状態を維持することが多くなってきた。 これが「丸くなる」と、いうやつなのだろうか? 忍耐力が身についてきたのだろうか? 経験を積むことで洞察力が増し、効率重視の行動を慎むようになってきたのだろうか? ……いやたぶん、 体力が衰えて移動が「めんどう」になった からかもしれない。 「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」 (頭ならびに腹 横光利一より) しかし実際のところ「留まる」のと「移動する」のでは、 どちらが心地よい人生 になるのだろう?    「移動」は成功する場合もあるけれど、失敗することも少なくない。変化の刺激は気分転換になるけれど、その刺激は継続しにくい。 すると、多少の忍耐は必要になるけれど、 総合的には「留まる」方が、やや優勢なのではないか。  大抵はどっしりと構え、タイミングを見て蓄積した力で大きく動く。 鮮烈さは与えにくいが、深く刻みこむならばこちら だろう。 さて? さて? さて?  ( 頭ならびに腹 横光利一より) 年齢を重ねる ことで失うものが目につきやすいけれど、得られるものもきっとある。それまでとは手触りが異なった「何か」を、見つけられるようになる。 横光利一の「 頭ならびに腹」 を読みながら、そんなことを考えました。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

年齢について、考えてみる。(番外編)

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芥川龍之介(35歳) 宮沢賢治 (37歳) 太宰治(38歳) 三島由紀夫(45歳) 夏目漱石(49歳) さて、ここに並べた 文豪の年齢が何を表しているか 、お分かりでしょうか? (30代が3名に、40代が2人。何か法則のようなものでもあるのだろうか? いや、それとも・・・)  はい。では、考えてみてください。制限時間は「3秒」 ↓↓↓ 3    ↓↓2         ↓1         ↓0! 時間切れです・・・さあ、答えは? (答)亡くなった年齢 学生のころ教科書で見た芥川の写真は知的で思慮深くて、だいぶ年齢が上に見えました。バーの椅子に腰掛けている太宰は大人びていて「作家先生」という趣が感じられました。このように年齢を重ねていきたいものだ。 そう思わせる雰囲気がありました。 そして気がつくと私は、 彼らが亡くなった年齢をとうに追い越していました 。しかし残念ながら、外見も内面も彼らとは雲泥の差です。渋みも深みもありません。そして40代に入ると、時間の速さは加速度を上げていきます。個人的体感でいうと、30代の1.35倍ほどの速さで過ぎるように感じられます。この調子でいくと漱石が亡くなった年齢まで、あっという間なのではないか? 自分と文豪を比較するのはおこがましいですけれども「これはもう、うかうかしていられない」と、しみじみ思ったのでした。 芥川龍之介と宮澤賢治 20代の時の文体 或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。(芥川龍之介 蜜柑) 文章を読んでいると、主人公が居る情景が頭に浮かんでくる理知的で端正な文体。この作品を書いたときの 芥川龍之介は27歳。 カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。(宮沢...

「時間 横光利一」読書の記憶(八十一冊目)

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バケツリレー vs  個人 小学生の頃の話。子供会の行事の準備で、バケツリレーをすることになった。子供たちが一列に並び、小さなプールにバケツで水を満たしていくことになったのだった。 並んで待っていると、水の入ったバケツが運ばれてきた。子供たちは、次々に運ばれてくるそれを受け取ると隣の子供に手渡していった。大きなバケツもあれば、砂場で遊ぶ時のような小さなバケツもあった。そんな風にしてバケツが人の手を移動していく様子を見るのは楽しかった。自分がその中の一人になっていることも、照れ臭いような嬉しいような気分になった。 しばらく作業を続けていると、一人の男子が 「みんなで手渡しするよりも、一人で運んだほうが早いんじゃないか」 と言い出した。そして実際に、大きなバケツを持って水道とプールの間を行ったり来たりの奮闘を始めた。 その男子は、何度か往復した後「やっぱり疲れた」などと言うと、運ぶのやめて地面に座り込んでしまった。それを見ていた世話役の大人が「おお、がんばったなぁ」と声をかけた。 私はその様子を見て、 自分も一人で往復してみたかった 、と思った。その頃の私は、おとなしくしているグループだったし、まだひとりでバケツを運べるくらいの体力に自信がなかったから、そうやって自分の考えを実行に移せる姿が、どこかかっこよく見えたのかもしれない。 「時間 横光利一」 そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。( 時間 横光利一より) 横光利一「時間」 の中で、帽子を手渡しで運んでいる場面を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。あの時、一人で奮闘していた男子は、今どこで何をしているのだろう。なんとなく、子煩悩な父親になっていそうな気がする。いや逆に、子供には厳しい頑固オヤジになっているのかな。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「奥の細道 松尾芭蕉」読書の記憶(八十冊目)

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「や」で区切ると、俳句っぽい雰囲気になる。 中学校の野外活動に参加した時の話。スケジュールの中に「オリエンテーリング」があった。森の中をチームで歩き回り、指定のポイントを通過しながらゴールを目指していくアレだ。 その時設置されていたポイントのひとつに「今の状況を俳句にしなさい」と、いう課題があった。「俳句」と聞いて頭に浮かんだのが、国語の時間に目にした松尾芭蕉の 閑さや岩にしみ入る蝉の声 夏草や兵どもが夢の跡 だった。そこで私は 「~や」で一度切って、あとにリズムの良い言葉を並べれば「それっぽい」ものになるのではないか、と考えた。実際にやってみた。内容はともかくとして、なんとなく形になったような気がした。私が作った 俳句を見た友人が「いいね。オレのも作ってよ!」と言ってきた。私は、ああいいよ、と同じような出まかせの俳句を作った。友人は「いいね!」と特に内容も吟味せず、そのまま紙に書き込んで提出していた。 オリエンテーリングが終わり、宿舎前の広場で全体集会があった。先生が前に立ち講評を話している中で 「俳句を作る課題があっただろう。あとで国語の ○○ 先生に選んでもらって、優秀なものを発表するから」と言った。 「オレが書いてあげた俳句が選ばれたら、あいつはどうするのかな?」と思った。もしそうなった場合、彼は 「実はこれ、サトー君に考えてもらって … 」と正直に言いそうな気がした。あの当時は 「先生が教室に入ってくる前に 席に着いていなかった」程度のことで、頭に拳骨をもらうような時代だったから「 代筆がバレたら、ひどく殴られるのではないか」と考えると、背中のあたりがムズムズした。 野外活動が終わり、学校に戻った。何かの配布資料の中で「優秀な俳句」が発表になった。 当然、私の考えたものは選外だった。怒られる以前に、選ばれるレベルではなかったのだ。すべては杞憂。 まあ、そんなものである。 山寺の石段を上がりながら。 今年の春に山寺へ行った。 階段を上がっている時に「 閑さや〜」の句が頭に浮かんだ。そしてここに書いた事を思い出した。 同級生達は、今どこで何をしているのだろう。とりあえず、元気に過ごしていてほしいと思う。 関連: 湯殿山へ行く(旅日記)

「杜子春 芥川龍之介」読書の記憶(七十九冊目)

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コーヒーを断って、願掛けをした話。 20代後半だったと思う。その頃「達成したい目標」 があった私は「願掛け」をしようと考えた。 やることはやっていたつもりだったが、 そこにプラスアルファが欲しいと感じたのだった。 そこで思い浮かんだのが「昔の人は願掛けとして、塩断ち、 お茶断ちをした」という、何かの本で読んだ一文だった。 「塩断ち」は、現実的に実行するのが難しいと思った。しかし「 お茶断ち」ならできそうだ。自分 の場合は、お茶よりコーヒーを飲む方が多いので「 コーヒー断ち」にしよう。目標を達成した時に飲むコーヒーは、 きっと今までで最高の一杯になるに違いない。 そう考えて挑戦することにしたのだった。 コーヒー断ちを始めて、二ヶ月くらいが過ぎた時だった。 夏の陽射しが燦々と降り注ぐ、暑い一日だったことを覚えている。 その日、車のディーラーに用事があった私は、 しばらく営業の方と話をしてから外に出た。駐車場に止めておいた自分の車に乗り込んで出発した時、ふと気がついた。 「今オレ、出されたアイスコーヒーを飲んでしまった!」 話に夢中になって、 無意識のうちに出されたコーヒーを飲んでしまっていた。二ヶ月ぶりの一杯は、まったく「記憶も感動も残らない一杯」で終了してしまったのだった。 杜子春 芥川龍之介 「たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。 もし一言でも口を利いたら、 お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。 天地が裂けても、黙っているのだぞ(杜子春 芥川龍之介)」 芥川龍之介の「杜子春」には、仙人になるために「 何があってもひとことも話さない」試練に立ち向かう若者(杜子春)が登場する。 どんなに酷い目にあっても口を開かないその様子からは「 絶対に仙人になる」という強烈な意志が感じられる。ここまで耐えるのならば仙人になれるかもしれない、と思えてくる。 ところであの時私は「何を実現 したくて、コーヒー断ち をした」のだろう? そこそこ真剣だったはずなのだが、今ではすっかり忘れてしまった。そもそもその程度の目標だから、 あっさりと飲んでしまったのだろうと思う。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行  ...

「Little Red Riding Hood」読書の記憶(七十八冊目)

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「この本には、もっと価値があるはずだ」  予備校生だったころの話。友人が「古本屋に本を売りに行く」と言い出したので、一緒に行くことにした。目当ての古本屋は雑居ビルの地下一階にあった。私達は一列になって薄暗く狭い階段を降りて、本の壁に囲まれている店内の奥の方へと進んでいく。レジの横に憂鬱そうな表情を浮かべた店長らしき人が椅子に座って本を読んでいた。友人は持ってきた本を差し出す。即座に 提示された金額は(正確には忘れてしまったが)百円とか、そのくらいだったと思う。  「この本には、もっと価値があるはずだ」と憤慨した友人はそこで売るのを止めて「他の店へ行く」と言った。結局、他の店でも提示された金額は同じくらいだった。友人はその本を売るのを止めた。一緒にいた別の友人が「その方がいいかもね」と呟いた。  その日をきっかけに「古本屋」の場所を知った僕は、一人で古本屋めぐりをするようになる。 お世辞にも綺麗といえない店内に、紙と埃が混ざった独特の匂いが漂う狭い店内は決して快適ではなかった。 三十分もいると鼻の奥のあたりがムズムズしてきて、外の空気が恋しくなってくる。  それでも、窮屈な空間に身を縮めるようにしながら、 隠された宝物を探すみたいに本を漁っているのは楽しかった。当時の僕にとって、 至福の時間のひとつだったように思う。 仙台の古本屋が閉店  昨年(2017年)に、仙台のSという古本屋が閉店した。閉店セールをやっているというので出かけることにした。気になった本を数冊選びレジに向かう途中、通路に置かれたカゴの中に「Little Red Riding Hood」の復刻版が入っているのが目にとまった。装丁が気になったので、一緒に買って帰ることにした。  家に帰って読んだ。「このような話だったかな?」と思った。自分が覚えていたストーリーと少し異なっているように感じたからだ。もちろん、本が間違っているのではない。自分の記憶が間違っているのである。  記憶は曖昧だ。時間と共に誤解や勘違いなどが混ざり合い、さらに個人的なバイアスのかかった「それ」へと変容していく。変容を繰り返す過程で、多くの部分が消え去っていく。消え去った記憶が、戻ってくることは稀有である。最初から存在しなかったかのように、新しい記憶に...

「兄たち 太宰治」読書の記憶(七十七冊目)

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「森羅万象」の読み方は? 高校生の時の話。私は数人の同級生と街中を歩いて移動していた。店頭に貼られているポスターが目にとまった。何かのイベント告知をするポスターだったと思う。私はそこに大きく印刷されていた「森羅万象」という文字を「もりらまんぞう」と声に出して読んだ。もちろん「しんらばんしょう」と読む事は分かっていた。ただ何となく、ふざけてそう読んだのだった。 すかさず、その時一緒に歩いていた女子の一人が「シンラバンショウ、でしょう!」と、私の言葉を修正した。私は「あ、そう読むんだ」と彼女に言った。正しい読み方を知らなかった、という素振りをしたのだった。彼女は何も言わなかった。私たちは目的地に向かって移動を再開し、誰かが別の話題を口にして、その話はそこで終わりになった。 なぜ、あの時私は「知ってるよ!」と反論できなかったのだろう? 彼女が、少し大きめの声で早口に指摘してきたからだろうか。その時一緒に歩いていたグループの中では、彼女がダントツで成績が良かったから「どうせ、オレは頭が悪いですよ」と、自虐的な感情が湧き上がってきたからなのか。高校生の頃の、なんとなく女子に尻込みしてしまうというか、照れてしまうというか、そんな感情のせいなのか。 「兄たち 太宰治」 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。 (兄たち  太宰治 ) あの時自分は「正しい答えを知っていること」を伝えたほうがよかったのだろうか。「参りました! 」などと、大袈裟におどけてみせればよかったのか? そう、もしかすると彼女は「それ」を期待していたのかもしれない。 ……いや、違う。それはない、と思う。何かのテストに出題された時、私が「モリラマンゾウ」と解答したら可哀想だから、と間違いを指摘してくれたのだろう。たぶん、それだけのことなのだと思う。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「太宰治との一日 豊島与志雄」読書の記憶(七十六冊目)

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深夜(22時)の電話 少し前の話。その時私は自宅で一人作業をしていた。知り合いのSさんから「今大丈夫ですか?」とメールが届いた。まもなく22時になるところだった。S さんからその時間帯に相談を受ける事は滅多にないので、何かあったのだろうか? と、こちらから電話をかけてみることにした。 「仕事で色々あって。なんだかほんとにごちゃごちゃして」 S さんは、ここ数日の間のできごとを話し始めた。しかし数分もすると、話題は別のものに変わっていた。結局 30 分ほど話をしたと思う。Sさんは、なんとなく軽やかな声になって電話を切ったのだった。 「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。 (中略) 然し、愚痴をこぼしに来たと言いながら、それだけでもう充分で、愚痴らしいものを太宰は何も言わなかった。──その上、すぐ酒となった。 (太宰治との一日  豊島与志雄より一部抜粋) おそらくSさんは、誰かと話をしたかったのだと思う。夜遅い時間になっていたけれども、私ならば、この時間でも何かしていることが多いので大丈夫だろう、と思って連絡を寄越したのだと思う。 明確なアドバイスが必要な時もある。厳しく批評されることで考えがまとまることもある。それでも「ただ自分の話を聞いてくれる相手がいる」ことを確かめるだけで、大抵の出来事は乗り切れるのではないか。 話を聞いたり、聞いてもらったり、そんな相手がいてくれるのなら百人力なのだと思う。 「 太宰治 との一日  豊島与志雄」を読んでそんなことを考えました。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星