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「かえるの王さま グリム兄弟」読書の記憶(七十四冊目)

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いまから十年ほど前、休日に釣りに行った時の話。目的地の池に到着し、釣り場へ向かって徒歩で移動していると、目の前に小川が立ちはだかった。ほんの100mほど横に移動すれば橋があったけれども、時間がもったいないし何よりも早く先に進みたかったので、その小川を飛び越えることにした。さほど川幅も広くないし、十分に飛び越えられると思ったのだ。 僕は、持っていた釣竿や道具を向こう岸に向かって投げた。身軽になった状態で少し助走つけて勢いをつけて踏み切った。その瞬間だった。何故か僕の頭の中に一瞬迷いが生じた。ある程度余裕で飛び越えられると思うけれど、もしかしたら失敗するかもしれない。ギリギリで川に落ちてしまうかもしれない。そんな考えが頭の中を通り過ぎたのだった。 心の微妙な動きは、想像以上に身体に影響を与えるものである 。 躊躇した僕は、踏み切りのタイミングでバランスを崩してしまった。あっ! と一瞬で頭の中がぐるぐると回転し、これはダメだ、と考えるのとほぼ同時に 片足を川の中に落としてしまったのだった。ほんとうにギリギリで落ちてしまっていた。もし躊躇しなければ両足で陸地に着地できたことは確実だった。 幸いに川底まで 浅かったし、片足は陸に届いていたので被害自体は少なかったものの、予想以上に精神的ダメージを感じている自分がいた。そして 「どんな小川でも、飛び越えるのはもうやめよう」と固く誓ったのだった。 これでおひめさまは、すっかり腹が立ちました。そこでいきなりかえるをつかみ上げて、ありったけのちからで、したたか、 壁 にたたきつけました。 (かえるの王さま より) この場面を読んだ時、ふと川に落ちた時のことを思い出した。王女様が、パニックを起こした時の精神状態と、僕が川に落ちてしまうことを確信して混乱した時の精神状態に、似ている部分があったのかもしれない。ただ大きく異なるのは、おひめさまは王子を手にいれたけれど、僕は濡れた靴を手に入れただけ、ということだった。

「猫の事務所 宮沢賢治」読書の記憶(七十三冊目)

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小学四年生の時の話。国語の時間だった。担任のS先生が、教科書に掲載されている小説の一段落を読み上げた。そしてその中の一文を黒板に書くと「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と、僕たちに質問をした。 何人かが答えた後、僕も指名された。僕は「作者は『動物達が踊っているように見えた』と言いたかったのだと思います」と答えた。先生は「あー、そう。次、〇〇さん」というように、特に良いとも悪いともなく授業は進み、次に当てられた生徒が答えたところで、その日の国語の授業は終わりになった。 数日後の国語の時間。S先生は前回と同じ部分を読むと 「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と質問をした。 僕は(この前の授業で自分の感想は言ったから、今回はいいだろう)と手を上げずに黙っていることにした。するとT君が、すっ、と手を上げるのが見えた。そして「作者には、動物たちが踊っているように見えたのだと思います」と言った。そう、前回僕が言った内容と同じ事を繰り返したのだった。 ところが先生の反応は、僕の時の「それ」とは違っていた。先生は「おお!それは、なかなか面白い読み方だね。うん、面白い!」とT君の感想を絶賛した。僕は、あれ? と思った。小学四年生の僕でも明らかにわかるほど、S先生の反応は僕の時の「それ」とは何かが決定的に異なっていたのだ。 僕は「前回、僕も同じことを言ったよ!」と主張しようと思いながらも、そのまま黙っていた。小学生の僕の頭の中には、悲しみとも怒りとも表現できないような感情が渦巻いていて、どうすればよいのかわからなかった。先生は黒板に「動物達が、踊っているように見えた」と大きく書いた。そして、これはいいなあ、とまたT君を褒めた。 その時だった。 クラスの中でも元気な女子の一人 が「それって、このまえ佐藤君も同じことを言ってたよ」と先生に向かって言った。そして僕に「そうだよね」と同意を求めてきた。僕は、うん、とうなづいた。先生は、そうか? と僕に背を向けたまま言った。 猫の事務所 宮沢賢治 「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、 遺骸 は水葬せらる。」一番書記の白猫が、 かま 猫の原簿で読んでゐます。 かま 猫はもうかなしくて、かなしくて 頬 のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つ...

「注文の多い料理店 新刊案内 宮沢賢治」読書の記憶(七十二冊目)

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「犬が走って、こちらへやってきた」 今あなたの頭の中には「犬」の姿が思い浮かんだことだろう。それは自分の家で飼っている犬であったり、友人や知人の犬、もしくは歩いてる途中に見かけた散歩中の犬、今までに様々なところで出会ってきた犬が、思い浮かんだと思う。 さらに、犬が好きな人ならば「かわいい」「楽しそう」「きっと耳を寝かせながら、跳ねるようにして、一生懸命にこっちに向かっているんだろうな」などと、楽しい感情がわき起こっているだろう。 犬が苦手な人ならば、過去に犬が苦手になった体験を思い出して、「走ってきたから逃げなくちゃ」「怖いなぁ」というような感覚を思い起こしているだろう。「やっぱり私は猫がいいな」と考える人もいるだろう。 「犬が走って、こちらへやってきた」 全く同じ一文であったとしても、頭の中に浮かぶイメージは、十人いれば十人が異なる。 言葉は過去の記憶とつながってできているから、同じ過去の記憶を持った人は存在しない。それらのフィルターを通して広がっていくイメージと感情が「まったく同じ」になることはありえないからだ。 イーハトヴは一つの地名である。(中略)じつにこれは 著者の心象 中に、このような 状景 をもって 実在 した ドリームランドとしての日本岩手県である 。 (注文の多い料理店 新刊案内 より一部抜粋)   この童話集の一列は実に作者の心象スケッチ の 一部 である。 (同) 宮沢賢治の「 注文の多い料理店 新刊案内」の中に、このような部分がある。 学生の頃にこの文章を読んだ時は、あまり意味がわからなかった。つまりこれは賢治の空想の世界ということなのか。 それとも賢治だけに見える特殊な世界なのか、いや答えなんて何もなくて「作品」としてこの言葉自体を楽しみ、思考を試みるところに意味があるのか、そんなことを考えていた。 これらはけっして 偽 でも 仮 空でも 窃盗 でもない。 多少 の 再度 の 内省 と 分析 とはあっても、たしかにこのとおりその時 心象 の中に 現 われたものである。 (同) そして、今、私はこんな風に考えている。 賢治 が現実の世界に目を向け、それに対して考察を行った時、賢治のフィルターを通して取り込んだ彼の頭の中には「ドリームランド」が映っていたのだと思う。 作者はそこに感...

「月夜の浜辺 中原中也」読書の記憶(七十一冊目)

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私はあまり物を処分する方ではない。一度手に入れたもの、いただいたものは使わなくなっても整理して保管しておくほうである。普段はそれでも特に問題はない。しかし、引っ越しの時などは「どれを処分し、どれを保管しようか」と、しばらく悩むことになる。 引っ越しは「量」で料金が決まるから、捨てられないものが増えれば増えるほど料金がかかってしまう。追加費用をかけてまでも、運ぶ価値があるものなのか? と自問自答しつつも結局処分できずに段ボールが増えていく。 いや、もう少し考えてみよう。 何も感じないものは即座に処分できるし「とりあえず今は必要がないけれど、いつか使う時がくるかもしれない」と保管しておくこともない。どちらかというと、さっさと処分してしまう。それを必要としている知人がいれば「保管しておくよりも、使ってもらった方が物も喜ぶだろう」と譲ってしまう。 でも、自分が「これはとっておこう」と考えたものを処分しなければならない時は(それが一枚のパンフレットだったとしても)どこか自分の大切にしていた部分が、大きく損われてしまうような気分になってしまう。誰かが土足で入り込んできて外に運び出され、どこかの地面に、乱暴に放り投げ出されたような気分になる。 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。 月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか? 中原中也 月夜の浜辺 より(一部抜粋) 「それ」を処分することができないのは「それ」を手に入れた時の記憶を、残しておきたいからなのだと思う。手に入れた時の自分と、そばにいた人のことを、今でも大切に想っているからなのだと思う。 中原中也      月夜の浜辺   夏と悲運

「雨の上高地 寺田寅彦」読書の記憶(七十冊目)

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「はじめて来たのに、なぜか懐かしい風景」などというと、観光案内のキャッチコピーみたいだけれども、僕にもそのような気分になった風景がいくつかある。 その一つが長野県の上高地である。大正池でバスを降り、ポクポクと足音を鳴らしながら木道を歩いていく。やがて視界が開け目の前に広がる河原へと降り、しゃがんで梓川の水に手を浸した時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来たぞ!」だった。本来ならば初めてやってきたのだから「やっと、来たぞ!」が適切な表現である。しかしその時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来た」だったのである。 今までに、雑誌や写真などで上高地の風景を眺めていたから、そう思ったのかもしれない。いろいろな場所を山歩きしてるうちに、どこかで目にした風景と記憶が混ざってしまったのかもしれない。 理由はいくつかあると思う。それでも説明できない衝動的な感覚で「自分は、前にもここに立ったことがある」と感じてしまったのだった。 行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に 藍灰色 の 帷帳 を垂れたように見えている。幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。(雨の上高地 寺田寅彦より) 寺田寅彦の「雨の上高地」を読んだ時、あの時の風景が頭の中に蘇った。僕が上高地に行った時は、雨ではなく晴天の1日だった。空からまっすぐに降り注いでくる太陽の光と、山の間から注がれてくる冷たく、そして透明な水のピリッとした肌触り。そして深呼吸をすると指先にまで染み渡っていくような清廉な空気。あそこは今でも「別世界への入口」なのかもしれない。 寺田寅彦      夏目漱石先生の追憶   雨の上高地

「はじめてのおつかい 林明子」読書の記憶(六十九冊目)

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小学1年生の時の話。いやもしかしたら幼稚園の時だったかもしれない。記憶が曖昧だけれども、たぶん小学1年生の時の話だったと思う。 母親から、肉屋に買い物へ行くように頼まれた。まさに「はじめてのおつかい」というやつである。母親は僕に「今日はカレーを作るから、お肉を買ってきて」と説明したあと「牛肉のカタロース300 グラムください」という台詞を覚えさせた。僕は、それを何度も繰り返しながら、一人で歩いて近所の肉屋に向かった。 肉屋のカウンターに到着した僕は、そこに立っている店員を見上げるようにして「牛肉のカタロース300グラムください」と呪文を唱えるように言った。この呪文を唱えさえすれば、僕の役割は終了だ。あとは店員から肉の入った袋を受け取って帰るだけのはず。僕は手の中にあるお金を確認しながら、店員の返事を待っていた。 店員は僕に向かって「牛肉の肩ロース?何を作るの?」と聞いてきた。僕はカレーを作ると答えた。店員は「カレー? 豚じゃなくて牛でいいの?」と尋ねてきた。 当時の僕は、カレーに牛肉と豚肉のどちらを使うのかなんて全くわからなかった。何と返事をすればよいかさえ、わからなかった。仕方がなく僕は「牛肉のカタロースください」と、母親から教わった言葉を繰り返した。 店員は、大丈夫かしら? と言うような表情をしてから「お母さんは?」と僕に聞いた。僕は、いないと答えた。その店員が横のほうにいた他の店員と「この子、カレーを作るのに牛の肩ロースが欲しいって言ってるんだけど。豚じゃないのかね?」と話しているのが聞こえてきた。 僕は次第に、もしかして「牛肉のカタロース」と言う言葉が間違っていたのじゃないかと思い始めてきた。もしかしたら「豚肉のカタロース」だったかもしれない。どうしよう。でも確かにここまで歩いてくる途中、ずっと「牛肉のカタロース」と言い続けてきたはずだ。しかしもうすでに自信はない。「豚肉のカタロース」だったような気もしてくる。 結局その店員は「牛肉のカタロース」の入った袋を渡してくれた。「もし豚だったら交換するから、レシートと一緒に持ってきて」とも言ってくれた。僕は袋を持って家に帰った。急いで帰った。そして母親に「牛肉のカタロースを買ってきたけどこれでいいんだよね」と聞いた。母親はそれでいいんだよと答えた。ああ、やっぱり間違...

「漱石先生臨終記 内田百間」読書の記憶(六十八冊目)

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前回 、私が進学塾の先生をしていた、ということを書いた。書き終えてから、あらためてその当時のことを思い返してみると、授業していた時の事よりも生徒と雑談をしていた記憶の方が多いことに気がついた。 授業が終わると、たいてい何名かの生徒が私の机の横に来て何やかやと話をしていった。わからないところを質問に来る生徒もいないわけではなかったけれども、ほとんどの生徒が意味のないような雑談をして帰っていくのだった。 ある日の授業の後のできごとだった。帰り際に、三人の女子生徒が「先生さようなら!」と挨拶をしてきた。その時私は書類を書いていたので、そのまま顔を上げずに「さようなら」と答えた。すると生徒の一人が「先生、次に会うのは一週間後なのだから、ちゃんとこちらを見て挨拶をしてください」と言った。私は、あわてて顔を上げると、その子達に向かってさよならと言った。三人の女子は顔を見合わせるようにして、ニヤニヤと笑った。そして、手を顔の横で振りながら、さようならと帰って行った。 私は、来週あの子たちが教室にやってきたならば「こんにちは!」と大袈裟に挨拶してやろうと思った。実際に言ったかどうかは忘れてしまった。多分、思っただけで実行はしなかったように思う。 「何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事ができなかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入した人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談も云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持ちが取れなかった。 (漱石先生臨終記 内田百間 より一部抜粋)」 馴染める生徒は、すぐに馴染める。初めての授業の後でも、普通に話しかけてくる生徒もいる。でも馴染めない生徒は、何回授業してもなかなか馴染めない。授業が気に入らないのかな、面談の時に保護者に話を伺ってみると「先生の授業は楽しいと言っていました」と、それなりに気に入ってくれていたりもする。もちろん、その逆の場合もある。なかなか難しい。しかし、このあたりに気を配っておかないと、授業の雰囲気にも関係したりすることがあるので、おろそかにすることはできない。先生は先生で、それなりに気を使っているのだ。...

「夏目漱石先生の追憶 寺田寅彦」読書の記憶(六十七冊目)

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大学を卒業してから初めてついた職業が「進学塾の先生」だった。碌に研修も指導も受けずに教壇に立たされ、生徒の前で授業をしたのだった。特に教師の仕事がしたかった、と言うわけでもない。教育の仕事に興味があったとい うわけでもない。そもそも自分が何かを教えるとか、先生として生徒の前に立つということに相応しい人間であるようにも思えなかった。 それでも気がつくと、長いこと教育の仕事を続けてきた。単純に考えて数百人以上の生徒の前に立ち、数千時間ほど授業をしてきたと思う。たぶん、なんだかんだでそのくらいは授業をしたと思う。そして最近では、学生のみならず社会人の皆さんの前にも先生として偉そうに立っている自分がいる。経営者の方とか、自分よりもだいぶ歳上で人生経験豊富な人たちの前にスーツを着て立っていたりする。 もしかしたら、教師と言う仕事は自分に合っていたのかもしれない。いや合ってはいなかったけれど、長い間この仕事を続けてきたことで「先生としての振る舞い」がなんとなく身に付いてきたのかもしれない。それでもこうやって続けて来れたという事は、それなりに適性のようなものがあったのではないか、と思うようにもしている。 夏目漱石が作家になる前に教師をしていたということを知った時には、自分と共通点ができたような(とはいっても漱石先生と自分とでは、大きなとんでもなく大きな隔たりはあるけれども)そんな気がした。 それと同時に、漱石先生は一体どんな授業したのだろう、ということが気になっていた。 当時でも、漱石先生の授業を受けられた生徒は本当に限られた、選ばれた人たちだったと思うけれども、もし可能ならば先生の授業受けてみたかった。立ち見でも、廊下の隅からでもいいから受講してみたかったなと思っていた。 先日、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」という作品の中に、漱石先生の授業の様子が記されているのを見つけた。 「松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣り方であつた。先生が唯すらすら音読して行つて、さうして「どうだ、分かったか」と云った風であつた。さうかと思うと、文中の一節に関して、色色のクォーテーションを黒板に書くこともあつた。」 「教場へはひると、先づチョッ...