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最終回「明暗 夏目漱石」読書の記憶(百冊目)

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受験生だった時の話。受験勉強は好きではなかったけれど「文学史」は面白かった。「受験が終わったなら、ここに紹介されている作品を片っ端から読んでやろう」そう考えていると、わくわくした。未踏の地に挑戦する冒険家のように、その先に早く足を踏み入れたくて仕方がなかった。 大学生になった僕は、最初に夏目漱石から読み始めることにした。新潮文庫を一冊ずつ購入して、次から次へと読んでいった。まだ理解できない部分や、読み取れない部分も多かったけれど、その世界の中に浸っていられることが嬉しかった。 読書は順調に進み、あとは「明暗」を残すだけとなった。僕は書店で明暗を購入し家路についた。部屋のテーブルの上に置いた。いつものように読み始めようとした時、僕の頭の中に「これが漱石が書いた、最後の小説なのだ。これを読んでしまえば、もう未読の作品はなくなるのだ」という考えが浮かんだ。 漱石は「明暗」を執筆中に亡くなった。つまり明暗は未完の絶筆である。最後まで読み終えたとしても、それは「最後」ではない。その先を読めることは永遠にない。うまく表現することはできないのだが、今は読まない方がいいような気がする。読む事によって何かが失われるような気配がある。僕は明暗を開かずに、本棚に並べた。 始まりがあれば、終わりがある。 始まりがあれば、終わりがある。もしもこの世界に変わらない真実があるとするならば「永遠なるものは存在しない。変わり続けることだけが真実だ」と書いてみたい。そして、これさえも変わり続けていくことは疑いようのない事実なのだ。 100冊を目指して書き始めた「佐藤の本棚」は、今回で100冊となった。100冊に到達した時、自分がどのような感覚を得られるのが楽しみだった。少なくとも達成感や充実感(のようなもの)は、ささやかながらも感じることができるだろうと期待していた。 しかし実際に到達してみると、意外なほどに「何もない」ことに気がつく。比喩でも誇張でも斜に構えているわけでもなく、本当に何もない。何もないのに無理やり何かを書く必要もないと思うので、これで終わりにしたいと思う。(佐藤の本棚 完) ☺ ブログの作者 プロフィールへ ☝ TOPへもどる ☝ ブログの目次 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草

「漱石と倫敦ミイラ殺人事件 島田荘司」読書の記憶(九十六冊目)

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大学生だった頃の話。漱石の「永日小品」を読んでいた時、僕の目はある一文に釘付けになった。   「いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭を忘れた御者かと思った」 (永日小品 夏目漱石より)   「ベーカーストリート!? シャーロックホームズじゃないか!」 資料を調べてみると、漱石が個人授業を依頼して通っていたクレイグ先生の家は、ベイカー街の一本隣の道にあった。漱石はクレイグ先生の家に向かう際に、ベイカー街を歩いていたのだった。 さらに面白いことに、漱石が英国留学に出発したのは1900年の9月。シャーロックホームズが活躍していた時期とも一致する。もしかして、漱石はベイカー街でホームズとすれ違っていたのかもしれない……。もちろん実在の人物(漱石)と架空の人物(ホームズ)が出会うなんて、ありえない。そのくらいのことは、いくらなんでも自覚している。 それでも、場所と時代がここまで一致してしまうと想像が広がってしまうのは致し方ない。いつの日か、ロンドンを訪問する機会があれば、漱石とホームズの事を思い浮かべながらベイカー街を歩いてみたい。そんなことを考えているうちに、予想以上に時間が過ぎてしまっていた。 今のところ、イギリスへ行く予定はない。それでも旅に出かける時は、いつだって急に決まることが多いので、旅立ちの心構えだけはしておこうと考えている。 島田荘司「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」 島田荘司氏の「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」は、ロンドン留学中の漱石とホームズ、そしてワトソンが出会い、事件を解決するという設定の作品である。  「失礼しましたナツミさん、何かお困りのことでもありましたか? ずいぶん遅くまで読書や書き物をなさるようですが、そのこと関連のあることですかしら」  ホームズがいきなりそう言ったので、日本人はひどく驚いた様子である。  「どこかで私のことをお聞き及びですか」 (漱石と倫敦ミイラ殺人事件 島田荘司より) 先日、ひさしぶりに「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」を読み返してみた。漱石とホームズ、そしてワトソンが会話をしている情景が、最初に読んだ時よりもリアルに頭の中に浮かんできた。漱石は戸惑い、ワトソンは親身でやさしく、ホームズは猛然と馬車を走らせる。たぶん、三人はあの時のあの場所で出会っていたに違いない。

「漱石先生臨終記 内田百間」読書の記憶(六十八冊目)

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前回 、私が進学塾の先生をしていた、ということを書いた。書き終えてから、あらためてその当時のことを思い返してみると、授業していた時の事よりも生徒と雑談をしていた記憶の方が多いことに気がついた。 授業が終わると、たいてい何名かの生徒が私の机の横に来て何やかやと話をしていった。わからないところを質問に来る生徒もいないわけではなかったけれども、ほとんどの生徒が意味のないような雑談をして帰っていくのだった。 ある日の授業の後のできごとだった。帰り際に、三人の女子生徒が「先生さようなら!」と挨拶をしてきた。その時私は書類を書いていたので、そのまま顔を上げずに「さようなら」と答えた。すると生徒の一人が「先生、次に会うのは一週間後なのだから、ちゃんとこちらを見て挨拶をしてください」と言った。私は、あわてて顔を上げると、その子達に向かってさよならと言った。三人の女子は顔を見合わせるようにして、ニヤニヤと笑った。そして、手を顔の横で振りながら、さようならと帰って行った。 私は、来週あの子たちが教室にやってきたならば「こんにちは!」と大袈裟に挨拶してやろうと思った。実際に言ったかどうかは忘れてしまった。多分、思っただけで実行はしなかったように思う。 「何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事ができなかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入した人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談も云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持ちが取れなかった。 (漱石先生臨終記 内田百間 より一部抜粋)」 馴染める生徒は、すぐに馴染める。初めての授業の後でも、普通に話しかけてくる生徒もいる。でも馴染めない生徒は、何回授業してもなかなか馴染めない。授業が気に入らないのかな、面談の時に保護者に話を伺ってみると「先生の授業は楽しいと言っていました」と、それなりに気に入ってくれていたりもする。もちろん、その逆の場合もある。なかなか難しい。しかし、このあたりに気を配っておかないと、授業の雰囲気にも関係したりすることがあるので、おろそかにすることはできない。先生は先生で、それなりに気を使っているのだ。

「夏目漱石先生の追憶 寺田寅彦」読書の記憶(六十七冊目)

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大学を卒業してから初めてついた職業が「進学塾の先生」だった。碌に研修も指導も受けずに教壇に立たされ、生徒の前で授業をしたのだった。特に教師の仕事がしたかった、と言うわけでもない。教育の仕事に興味があったとい うわけでもない。そもそも自分が何かを教えるとか、先生として生徒の前に立つということに相応しい人間であるようにも思えなかった。 それでも気がつくと、長いこと教育の仕事を続けてきた。単純に考えて数百人以上の生徒の前に立ち、数千時間ほど授業をしてきたと思う。たぶん、なんだかんだでそのくらいは授業をしたと思う。そして最近では、学生のみならず社会人の皆さんの前にも先生として偉そうに立っている自分がいる。経営者の方とか、自分よりもだいぶ歳上で人生経験豊富な人たちの前にスーツを着て立っていたりする。 もしかしたら、教師と言う仕事は自分に合っていたのかもしれない。いや合ってはいなかったけれど、長い間この仕事を続けてきたことで「先生としての振る舞い」がなんとなく身に付いてきたのかもしれない。それでもこうやって続けて来れたという事は、それなりに適性のようなものがあったのではないか、と思うようにもしている。 夏目漱石が作家になる前に教師をしていたということを知った時には、自分と共通点ができたような(とはいっても漱石先生と自分とでは、大きなとんでもなく大きな隔たりはあるけれども)そんな気がした。 それと同時に、漱石先生は一体どんな授業したのだろう、ということが気になっていた。 当時でも、漱石先生の授業を受けられた生徒は本当に限られた、選ばれた人たちだったと思うけれども、もし可能ならば先生の授業受けてみたかった。立ち見でも、廊下の隅からでもいいから受講してみたかったなと思っていた。 先日、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」という作品の中に、漱石先生の授業の様子が記されているのを見つけた。 「松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣り方であつた。先生が唯すらすら音読して行つて、さうして「どうだ、分かったか」と云った風であつた。さうかと思うと、文中の一節に関して、色色のクォーテーションを黒板に書くこともあつた。」 「教場へはひると、先づチョッ

「変な音 夏目漱石」読書の記憶(六十二冊)

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大学生の時に、一人暮らしをしていた時の話。夜部屋にいると、隣の部屋の方から音がした。小さなボールを壁に投げて当てているような「コンコン」という音だった。初日は、隣の人が部屋の壁に向かってスーパーボールでも投げて遊んでいるのだと思った。そこまで大きな音でもないので、特に気にもしなかった。翌日も、ほぼ同じ時間に同じような音がした。次の日も続いた。その音は五日間くらい連続で続いた。少し気になってきたので、バイト先の先輩にその話をしてみることにした。 「オレの部屋でも、朝になると『ドスン』という音がするんだよ」と休憩室でタバコを吸いながら先輩は言った。 「ドスン、ですか?」 「うん。上の階の人なんだけどね、目が覚めたらベットの上から床に飛び降りる癖があるらしくてさ。だいたい同じ時間に、ドスンという音がするんだ」 「毎日だと気になりますよね」 「まあ、もう慣れたけどね」 その日、家に帰ると、隣の部屋から「コツコツ」の音は聞こえてこなかった。翌日も聞こえなかった。不思議なもので、聞こえなくなると逆に気になるものだ。そろそろ聞こえてくる時間かな、と期待して待ってみても、やはり音はしなかった。そして、気がつくと音はしなくなっていた。 うとうとしたと思ううちに眼が 覚 めた。すると、隣の 室 で妙な音がする。始めは何の音ともまたどこから来るとも 判然 した 見当 がつかなかったが、聞いているうちに、だんだん耳の中へ 纏 まった観念ができてきた。何でも 山葵 おろしで 大根 かなにかをごそごそ 擦 っているに違ない。自分は 確 にそうだと思った。 (夏目漱石 変な音より) 先日、 漱石 の「 変な音 」を読み返した時に、この音を思い出した。音の原因がわかれば、何も怖くない。しかし原因がわかるまでは、色々と想像してしまう。時として疲弊してしまう。あの隣の部屋から聞こえた「コンコン」は何だったのだろう。スーパーボールを壁に当てていたのか。リズムが一定だったから、何か機材が動作する音だったのか。それとも部屋からではなく、外から聞こえていたのだろうか。今となっては答え合わせをすることはできない。 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草   私の個人主義   明暗

「私の個人主義 夏目漱石」読書の記憶 四十七冊目

予備校に通っていた時の話。現代文の授業の中で「アイデンティティ」という語句についての解説があった。細かな部分は忘れてしまったのだが「このアイデンティティという概念は日本にはないため、正確に解釈することは難しい。おおむね『自己を定義することがら』というニュアンスで考えておけばよいだろう…云々」というような内容だったと記憶している。解説を聞いても腑に落ちないところがあったので、同じ授業を受けていた友人に聞いてみたところ「なんだか、わかるようで、わからない」という返事がかえってきた。仕方がないので「もし出題された場合は、授業の解説のコメントを丸写ししておけば多少は点数がもらえるだろう」と、お茶を濁すことにしたのだった。 今、あらためて考えてみると「自己を定義できる」ということは「他者と自分の違いを定義することができる」ということだろう。つまり「他者を完全に定義(認識)することができなければ、正確に自己を定義(認識)したとはいえない」と、いうことになる。しかしながら、それは不可能である。目の前に立つ「ひとり」でさえ、すべての情報を把握し認識することはできない。どんなに情報を収集したとしても、せいぜい一部、または部分を把握するのが精一杯なのだ。さらに、昨日と今日の間にも確実に変化は生じていく。明日はどうなっているかわからない。不安定要素と変化の幅が大き過ぎる。つまり完全に「自己を定義する」ということは「不可能」なのではないか。 と、思いついたことを並べてみたのだが、なるべく詳細に解説してみようと試みるあまり、逆にわかりにくい内容になってしまった。中途半端にわかったふりをすると、このようになる。よくあるパターンである。つまりそういうことである。 先日、 漱石 の「私の個人主義」を読みながら、そんなことを考えていた。この講義の内容は、今から百年ほども前に語られたんだよなあ、とも考えた。まるでほんの数年前に語られたといっても、ほとんど違和感がないじゃないか。いったい漱石は、どこまで深く遠くまで考えを巡らせていたのだろう。 「私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。(私の個人主義 夏目漱石より)」 私の「がちり」の瞬間は、もうまもなくだろうか。もしかすると、一度くらいは「そこ」に掠ったことがあるのかもしれな

「虞美人草 夏目漱石」読書の記憶 四十冊目

予備校に通っていた頃の話。僕は知り合いの女性と一緒に街の中を歩いていた。彼女は、薄手の長袖シャツを一枚着ているだけだったから(なぜか、シャツの事だけは明瞭に覚えている)梅雨入りしたばかりの頃だったと思う。 アーケード街に、老舗の眼鏡屋があった。そこの看板を目にした彼女は「そろそろ新しい眼鏡をつくりたい」と、いうようなことを口にした。 「眼鏡? そんなに目が悪いんだ」と僕は聞いた。 「そう」と彼女は答えた。 「でも、普段は眼鏡をかけていないよね」 「私、目が綺麗だから、眼鏡で隠したくないの」 と、彼女は自分の目のあたりを指差しながら言った。 確かに彼女は綺麗な目をしていた。十分に美人と言える容姿をしていた。それと同時に、彼女も僕もあまり冗談を言うタイプではなかったし、互いにまだ軽口を叩けるほど親しくもなかったから、僕はすっかり返答に困ってしまった。 問題: 当時の僕は何と返したでしょう? 先日、 漱石 の「虞美人草」というタイトルを目にした時、このエピソードを思い出した。彼女とはもう何十年も会っていないし、連絡先すら知らない。道ですれ違ったとしても、お互いに気がつくことはないだろう。それでも記憶の中では、ほんの数年前のできごとのように 思える。こんなにも、はっきりと思い出せるのに、本当にそんなに長い時間が過ぎたのだろうか? 「いつの間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾くに心得ている」 (夏目漱石 虞美人草より) しかし現実として、あの日から確実にしかるべき時間が流れ去ってしまった。僕は、悟りもせず学びもせず、ただ目の前を過ぎていく風景を眺めているうちに今日まで年齢を重ねてきてしまった。人間は最後の瞬間に、今までの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡るというけれど、僕の場合は一体どのような映像が蘇ってくるのだろう。せいぜい、出会った人達と交わした 会話の断片と相手の服装程度しか、蘇ってこないかもしれない。 ・・・ さて、話を戻そう。当時の僕は何と返したか。答え

【番外編】レコードジャケットが、すべての出発点だった。

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「 むかしむかし、レコードというものがあった。 それは丸くて黒くて薄くて、回転させたそれに針を乗せると音楽が流れて・・・」と、レコードを昔話のように若者に語る時代もそう遠くはないのではないかもしれない。今の10代の人達の中で、レコードで音楽を聴いたことがある人は何%くらいなのだろう。学校の視聴覚室には、今でもレコードが置いてあるのだろうか。 確かにレコードは面倒が多かった。素材が塩化ビニールで傷がつきやすく変形しやすいから、細心の注意を払って扱わなければいけない。なにしろ表面に傷がつくと、音が飛んでしまってまともに聴けなくなることもあるのだ。 表面のごみやほこりをそっと払って、ターンテーブルの上に置く。再生のボタンを押すと、プレーヤーのアームが機械的なそれでいてどこか艶かしいような動きで、レコードの上に針を乗せる。ボッ、と接触音。パチパチという微かなノイズ。そしてスピーカーから音楽が流れ出した瞬間、すでにひと仕事を終えたかのように安堵したものだった。 そして、僕にとってレコードを購入する最大の楽しみのひとつが「レコードジャケット」だった。気に入ったジャケットは、棚にこちらに向けて飾った。当時はアーティスト本人がジャケットのデザインをしていると思い込んでいたので「さすがに○○はセンスがいい!」と、うれしくなったものだった。 高校生になりアルバイトをするようになってからは、知らないアーティストのレコードでも「ジャケットがかっこいいから」という理由だけで購入することも増えてきた(いわゆる『ジャケ買い』というやつだ)。気に入ったレコードジャケットを見つけると、わくわくした。普通に生活していては、出会う事がないデザインに触れることができる喜び。おそらく当時の自分にとって 「レコードジャケット =アートの世界に触れる場所」 の意味合いが強かったのだと思う。 そして今でも自分がデザインのディレクションをする時に、 頭の中に浮かぶイメージは当時のレコードジャケットであること が少なくない。自分にとってのアートワークの基盤は、そこにあるのかもしれない。と、いうよりも、そこが出発点だったことは間違いない。 さて、今回はレコードジャケットについて書こうと思ったのではない。「それ」を出発点にして本の装幀について、書いてみようと思っていたのだった

「坊っちやん 夏目漱石」読書の記憶 二十七冊目

大学に進んで上京してから半年くらいが過ぎた時だった。地元に帰って知人と話していたところ「なんだか、すごく早口になったね」と、いうようなことを言われた。特に自覚はなかった。しかし、そう言われてみると気になるので、後日他の人に「早口になったか?」と聞いてみた。特に早口だとは言われなかった。 もしかすると、その人の前では早口になってしまっていたのかもしれない。時間があまりなくて、なんとなくせわしない雰囲気になっていたので「早口になった」というような言い方をしてきたのかもしれない。もう少しゆったりと話をしよう、ということを伝えたかったのかもしれない。もうその人と会う機会はなくなってしまったから、本当のところはわからない。 漱石 の「坊っちやん」を読んだのは中学一年生の時だった。そしてこれが僕が初めて触れる漱石の作品だった。読み始める前までは「教科書に載っているような日本を代表する偉大な作家」という情報から「難しそう。自分にも理解できるだろうか」という印象だった。特別な「何か」があって、それを理解するには素養のようなものが必要なのではないか、と感じていたのだった。ところが最初の数行を読み始めた途端、その先入観はどこかへ吹き飛んでしまった。リズミカルな文章とスピード感のある展開にぐいぐいと引き込まれた。ほんの数時間で最後まで一気に読んでしまった。 「これが文豪と呼ばれる作家の作品なのか」と思った。どこか遠くの世界に旅して帰ってきたかのような感覚。そして「すごくおもしろい。これならいくらでも読める」と思った。 それから数年後、大学で日本文学を専攻するきっかけは「坊っちやん」を読んだことだったのかもしれない。先日ひさしぶりに「坊っちやん」を読み返した時も一気に最後まで読み終えてしまった。そして、ここに書いたようなことを思い出したのでした。 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草   私の個人主義   明暗

夢十夜 (夏目漱石)読書の記憶 十五冊目

僕は布団の上に横になっている。いつもと同じ部屋。いつもと同じ布団。目を開けて、いつもと同じ天井を眺めている。ふと天井の模様が気になって、目を凝らしてみる。人の顔のように見える。左目だけが妙に大きい顔。怒っているようにも、泣いているようにも見える。数秒ほど見つめていると、どんどん天井の模様が大きくなって、こちら側に迫ってくる。ぐいぐいと勢いをつけて自分の方に迫ってくる。 自分が空中に浮いているのか? それとも天井が迫ってきているのか? その両方なのか? それを確認する間もなく、僕の目の前に天井が近づいてくる。もう、天井にこびりついている埃さえもはっきりと見える。端の方に見えるのは蜘蛛の巣だろうか? せっかくこんなに近づいているのだから手で払っておこうと思う。普段は背伸びをしても届かない場所だけれども、今は届く位置にあるのだから取り除いておこうと思う。 僕は手を伸ばそうとする。そこで目が覚める。絶対に、天井に触れることはない。どんなにギリギリの距離にまで迫ったとしても、僕の息が天井に届く距離にまで近づいたとしても、決して触れることはない。 子供のころ、熱を出して寝ている時にこの夢を見た。ああ、またこの夢だ、という気分と、頭の奥底をかき混ぜられて記憶が歪んでゆらめいて何かが損なわれたような不安な気分が混ざり合って、ひどく落ち着かない気分になった。「この場所」は「いつもの場所」と同じ場所なのだろうか。そして、「今ここにいる自分」は「さきほどまでの自分」と同一人物なのだろうか。そんなことを小学生の漠然とした頭で考えていた。そしてこの夢は、中学校に進級したあたりから見ることがなくなってしまった。 大学生のころ 漱石 の「夢十夜」を読んだ時、ひさしぶりにこの夢のことを思い出した。頭の中に夢の映像が思い浮かんできた。意識はしっかりと目覚めているのに、頭の中で夢の映像が再生されているような、現実の世界と夢の世界を同時に見ているような感覚だった。もしかしたら漱石もこんなに風に「昼間に見た夢」を描いたのではないだろうか? と思った。 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草   私の個人主義   明暗

こゝろ (夏目漱石)読書の記憶 十一冊目

子供のころ「一生のうちに、何冊本を読めるだろう」と考えたことがあった。「1日1冊ペースだと一年で365冊。10年だと3650冊。すると、10000冊読むには、だいたい30年くらいかかるのか。30年なんて永遠に未来のような気がするな」 そしてあの日から、おおむね30年が経過したわけだけど、実際のところ僕は何冊の本を読んだのだろう。精読した本だけではなく、資料として部分読みをした本や雑誌なども含めれば8000冊は読んだ・・・いや、少なくとも5000冊は読んだだろうか。いや7000冊くらいは。 時間には限りがあるし、なるべく多くの本を読みたいから、同じ本は繰り返し読まないようにしている。それでも、定期的に読み返してしまう本がある。その一冊が夏目漱石の「こころ」である。 高校生のころ、音楽とバイクに夢中になっていた僕は、小説の類いを読まなくなっていた時期があった。特に「文学なんてカビ臭いもの誰が読むっていうんだよ」というようなロックっぽい反骨精神があったわけでもなく、ただなんとなく手が伸びなかったのだ。 そんなある日。教科書に収録されていた 漱石 の「こころ」を読んだ。純粋に「もっと読みたい」と思った。続きが読みたい。自分が読みたいと思っていたのはこれだ。と、いうようなことを少し興奮気味の頭で思った。学校帰りに書店に寄って、新潮文庫の「こころ」を手にとった。えんじ色の背表紙が、なんとなく漱石っぽいと思ったからだ。 本の値段は、わずか数百円だったのだけど、懐の寂しい高校生にとっては少々勇気が必要な金額だった。いやいや、大袈裟ではなく、お金があれば一枚でも多くCDを手に入れたいと思っている高校生にとっては、数百円でさえも大きな決断が必要だったのだ。たぶんみなさんにも、そんな時期があったのではないかと思う。 結局、その日は断念したものの、数日後無事に「こころ」を購入することができた。一気に読んだ。読み終わってから、あとでまたゆっくりと読み返そう、と思った。それから長い時間が過ぎたけれど、今でも時々読み返すことがある。先日も前半部分を読み返した。「すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。そうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。(上 先生と私 30より)」の部分が目にとまった。こんな場面があったんだな、と思った。 夏目

三四郎 (夏目漱石)読書の記憶 五冊目

中学生の頃の話。学年集会だったか全校集会だったかは忘れてしまった。そこで、ある先生が「今、みなさんは『青春』真っ盛りなわけですが・・・」というような話を始めた。その瞬間、生徒の間で失笑が起こった。生真面目な風貌の先生が「青春」という言葉を、唐突に口にしたことがなんとなくおかしかったのだ。 その時僕は、自分が「青春の真っ盛り」にいるとは考えられなかった。そもそも青春というものが、どのようなものかを説明することはできなかったけれど、とりあえず今とは違う「何か」が、そこには漂っていて「ああ、これがつまり青春ってやつなのかもしれない」と自分も周りにいる友人達も、目を合わせて黙ってうなづくような、静かなる熱狂がふつふつと心の奥から沸き上がって溢れ出しそうな、そんな感じの時間のような気がしていたからだ。少なくとも今の自分のような、退屈でエネルギーを持て余しているような状況とは全く異なった雰囲気の世界だろう、と思っていたからだ。 青春、という時間が、とっくの昔に過ぎ去ってしまった今。ふと「ところで青春ってやつは、いつ始まっていつ終わったのだろう」と考えた。「いつだって若々しい心を持っていれば、それがつまり青春を生きているということなのだ」という自己啓発本のような青春の定義ではなく「あ、今オレは青春なのだ」と自他共に認められるような青春の時代とは、いつだったのだろう。 とりあえず、青春らしいことも、心の奥底が抑えきれないほどふつふつとしたこともなかったような気がする。もしも「それ」が存在するとするのなら(存在したはずである)音もなくやってきて、そよ風のように遠くへ過ぎ去っていったのだろうか。いや、そよ風ならまだ体感することもできるから、そよ風とさえ言えないくらい微かに。 漱石 の青春小説「三四郎」の主人公、三四郎は熊本から上京し東京帝国大学へ入学する。そこで出会った人、風景、できごとに翻弄されながらも、時々立ち止まり何かを考えようとする。考えるけれど、自分からは何もしようとはしない。ただ目の前の世界がスピードを加速して流れ変化して行く様子を眺めている。そして結論が出ないまま、話は終わる。もしも、これを「青春」と呼ぶのならば、そう確かに僕にも青春はあった。 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草   私の個