「おふろやさん 西村繁男」読書の記憶(九十冊目)

銭湯は、ぼくらの「遊び場」だった。


幼稚園に通い始めた頃の話。何ヶ月かに一度くらいのペースで、家族で銭湯へいくことがあった。子供のころの僕には、銭湯の湯船は広いプールのように見えた。湯の中で手足を伸ばすと、ふわっと身体が浮くようになる感覚が楽しかった。住んでいた借家にはシャワーがなかったので(当時は、シャワーがついていない家も多かったんですよ)頭の上から湯を浴びることができるのもうれしかった。

客が僕たち以外に誰もいなくなった時、父は僕を背中に乗せて湯船の中を泳いでくれた。泳ぐといっても、ほんの数メートル亀のように移動するだけだったけれど、湯をかき分けていく様子が、まるで船が海の中を進んでいく時のように思われて勇壮な気分になった。最後まで客足が途絶えず背中に乗せてもらえなかった時は、銭湯にやってくる楽しみのひとつが失われたように感じたものだった。


湯船からあがって母親たちを待っている時、まちくたびれた父親に「女湯に行ってお母さんの様子を見てこい」と言われたことがあった。僕は「お父さんが行けばいいじゃないか」と言った。父は「オレが行くと大変なことになるけど、お前なら大丈夫だから見てこい」と言ってきた。その時僕は、なぜ僕なら大丈夫で父親だと駄目なのかが、わからなかった。そして、父親が駄目なら自分も駄目なはずだと考え、女湯へ行くのを頑なに拒否したのだった。

僕は、風呂から上がってきた母親に「お父さんに、女湯へ行けと言われた」と報告した。たぶん僕は母親に「女湯に来てはダメ」と言ってもらいたかったのだと思う。自分の判断が正しかったことを、認めてもらいたかったのだと思う。でも母親は・・・何と答えたのかはもう忘れてしまった。母親はただなんとなく笑って、そのままみんなで外に出たような気がする。


「おふろやさん」には、昭和の情緒溢れる銭湯の絵が描かれていた。それは、当時の僕たちが利用していた銭湯とは少し異なっていたけれど、それでもどこか懐かしいような気分になった。そしてページをめくりながら「自分にも父親の背中に乗れるくらい小柄だった時期があったのだ」としみじみ思ったのだった。

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