読書の記憶 十三冊目:青年 (森鴎外)

大学受験の勉強というものは、おおむね退屈なものだけれども、その中でもわりと興味を持って取り組むことができたのが「文学史」だった。「日本文学史における『物語の祖』が竹取物語である。そしてそこから・・・」と時系列で文学作品について学んでいくアレである。

「現実を赤裸々に描こうとする自然主義が生まれ、文壇に大きな影響を与えた訳ですが、今度はそれに対して反自然主義が生まれ・・・」のように、一方が盛り上がればそれに反するものが生まれ、次にそれに反するものが生まれ、さらにさらにと続いていく流れに、なるほどなるほど、と高校生の僕はしみじみとうなづいていたものだった。もちろん、なるほど、と言っても文学思想そのものに感心していたわけではなく、そのような視点で文学作品を読み解くということに、面白さを感じていたのだと思う。作品が生まれた時代背景や、作者の立場や思想から作品を解釈していくことで何かが見えたような気になっていたのかもしれない。

その中で、とりわけ気になったことのひとつが、漱石と鴎外のエピソードだった。「鴎外は漱石の『三四郎』に刺激を受けて『青年』を書いたとされる」という説明などを聞くと、なんだかわくわくするものを感じたものだ。鴎外にも刺激を与えるような「三四郎」とは、さぞかしすばらしい作品なのだろう。さらにそれを読んで執筆された「青年」はどれほどの作品なのだろう。その時の僕は「三四郎」も「青年」も、まだ読んでいなかったので、受験が終わって時間に余裕ができたのなら絶対に読もう。すぐ読もう。と、楽しみにしていたのだった。

ところが、受験が終わり時間に余裕ができると、逆に本なんて読まないものである。もっと単純に目の前にある刺激を優先してしまうものである。時間ができたのなら、文学史に出てくる主要な作品はすべて読もう、と息巻いていた気分は急速に向こう側へと飛び去っていき、非生産な時間をもてあます日々が続いてしまうのが凡人の性なのかもしれない。そもそも懸命な人ならば、受験勉強の合間の時間を上手に使って、さっさと読了してしまうことだろう。


そのように怠惰な時間を繰り返していた学生時代の中、ようやく「三四郎」と「青年」を手にとる時がやってきた。もはや、いつ読んだのか、ふたつの作品を比較してどのような感想を持ったのかは忘れてしまった。ただ「三四郎→青年」の順に読んだことは覚えている。続けて鴎外の「舞姫」を読んだことも覚えている。そして、しばらくしたら「青年」をもう一度読んでみようかと考えているうちに大学を卒業し社会人となり、結局再読されることなく今日までやってきてしまった。そんなわけで、鴎外の「青年」は「いつか再読しよう」と思いながら、そのままにしている作品のひとつとなっている。

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