読書の記憶 十七冊目:壁 (安部公房)

僕がまだ大学生で、ひとり暮らしをしていた時のこと。ある日、玄関のチャイムがピンポンピンポンピンポンと、連打された。そして、ドンドンドン! とドアが叩かれ、間髪いれずに、またピンポンピンポンピンポンとチャイムが鳴らされた。

あからさまに攻撃的な雰囲気。中にいることはわかってんだ! 今すぐ出てこい! と言わんばかりのチャイム連打。不思議なもので、全く身に覚えのないことなのに、頭の中では「何かやってしまったかな?」と考えてしまうものである。朝に捨てたゴミの中に変なものがはいっていたとか?(もちろん入れていない) バイクで走行中に猫をはねてしまったとか(もちろんはねていない)など、一瞬にして色々と考えてしまうものである。僕は、急いで玄関に向かいドアを開けた。その瞬間、ドアの前で待ち構えていた人が、ドアが開くやいなや即座に隙間から手を伸ばし、玄関の中に洗剤の箱を次々と積み上げていった。

「何ですか? これは?」
と僕はいつもよりも大きめの声で、その人に言った。
〇〇新聞って知ってる?」と、その人は言った。僕は黙ってうなづいた。
「前に、ここに住んでいた人に〇〇新聞をとってもらってたんだ。三ヶ月でいいからとってよ」

年齢は、二十代後半くらいだろうか。小柄で髪を赤く染めている彼は、つまらなそうな表情でそう言った。その態度は、オマエが「〇〇新聞」をとるのはこの部屋に住んだ時からもう決まっていることだ。さっさと契約書にサインしろ、俺は忙しいんだ。ほら何やってんだ、いいから早くサインしろ。というようなイライラとした雰囲気を醸し出していた。
僕は、この足元に積まれた洗剤がいわゆる勧誘の粗品であることを理解した。こちらの話を聞く前に、無言で洗剤の箱を積み上げてしまうことで、既成事実のようなものを作ってしまおうとしているわけだ。

僕は黙っていた。来年から就職活動が始まるからそろそろ新聞をとるのも悪くないかな、と思っていたところだったし、今回は「〇〇新聞」をとってみようかと考えていたくらいだったからだ。タイミング的には最良のタイミング。でも、この勧誘員の威圧的な態度には、どうにも納得することができない。
僕は黙っていた。そして考えた。確かに新聞はとりたいと思っていた。ちょうど洗剤も切れている。でも、この人の態度はいくら何でも横暴すぎる。こちらを下に見ている事がありありと感じられる。わざわざ不快な思いをしてまで契約する必要なんてない。
しかし、それにしても・・・、なぜこの人は、ここまで威圧的な態度で契約を迫ることができるのだろう。

ちょうどその時、同じアパートの人が帰宅してくるのが見えた。ドアを開ける前に、少し立ち止まってこちらの方を見た。僕は、知らない人が見たら、こちらに非があるように見えるだろうと思った。借金取りが家に押し掛けてきて、返済を迫っているようにでも見えただろうと思った。

・・・しかし、それにしてもどうして僕は、今ここでこうやって知らない人に威圧されながら玄関に立っていなければいけないのだろう。一日がおわって、ゆったりと過ごせる貴重な時間を、なぜムダに過ごさなければいけないのだ。

勧誘員は後ろを振り返って、僕が見ている方を見た。そして、なんだ何もないじゃないかと、いうような感じで振り返ると僕の顔を見た。その時僕は、いったいどのような表情をしていたのだろう? 僕の表情を見た彼は急に態度を変え「契約してくれたら、もうこないからさ。他の奴にもここにはこないように言っておくからさ」と、ニヤニヤと愛想笑いを浮かべながらもみ手をするように、腰を低くしながら頭を下げ始めた。その仕草を見ているうちに、ふと、この人にも生活があって、もしかしたら結婚しているかもしれなくて、仕事を頑張って稼がなければならなくて・・・と、いうようなことが頭に浮かんできた。この人も、大変なのだ。生活するために必死なのだ。おそらく。
契約したら、もう、こないでくださいよ」と僕は念を押した。「こないよ」と、彼はニヤニヤしながら申込書を書き始めた。

先日本棚を整理している時に、安部公房の「壁」が目にとまった。手に取って読んでみた。主人公が裁判を受けている場面で、この勧誘員とのやり取りを思い出したもしも今また、あの勧誘員に契約を迫られたとしたら僕はどうするだろう?たぶん・・・いや、どうかな。

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