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「厠のいろいろ 谷崎潤一郎」読書の記憶(九十四冊目)

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今回は「厠 =トイレ」についての話である。清涼(?)な話ではないので、気になるような状況の人は、ここから先をお読みになる事はお勧めしない。 … … 読み進めているという事は、あなたは今「トイレ」の話をされても大丈夫と言うことですね? では続けていきたいと思う。 ボットン便所と、バキュームカー 小学生の頃の話。その当時、私の家族が住んでいた借家は、水洗ではなく汲み取り方式のトイレだった。いわゆる「ボットン便所」というやつである。 汲み取り式の便所は、アレが一定量貯まるとバキュームカーに来てもらって、汲み取ってもらうことになる。作業を始めたバキュームカーからは、独特の匂いが周囲に漂ってきて、下校途中にバキュームカー見つけたりすると「逃げろ!」と、息を止めて走り去ったものだった。 ある日のことだった。自宅のトイレの汲み取り口に、見たことがない厚手のゴム手袋が置いてあった。バキュームカーの人が、作業後に忘れていったのだった。私は「この手袋がなければ、作業ができないのではないか」と子供ながらに心配した。予備の手袋はあるのだろうか? それとも軍手などで代用するのだろうか?  私は母親に「バキュームカーの人が手袋を忘れていった!」と報告した。母親は「ああ、忘れたのね」と言うと、地面に落ちていた手袋を拾って、臭気を抜く煙突(臭突というらしい)にぶら下げた。そして、その状態のまま数日が過ぎ、いつのまにか手袋は、そこからなくなってしまっていた。 便所の匂いには一種なつかしい甘い思い出が伴うものである。 (厠のいろいろ 谷崎潤一郎より) 谷崎潤一郎「厠のいろいろ」を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。そして思い出した瞬間、鼻の中にあの独特の匂いが戻ってきたような気がした。

「春の夜 芥川龍之介」読書の記憶(九十三冊目)

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「さっき、あなたに、そっくりの人を見ました」 会社勤めをしていた時の話。私はいつものように駐車場に車を停めて会社へ向かっていた。エレベーターの前で扉が開くのを待っていると、あとからやってきた同僚が、私の顔を見て驚いたような表情をした。 「佐藤さん、さっきあそこのコンビニのところにいましたよね」とその人は言う。 「駐車場からきたので、そっちには行ってませんよ」と私は答える。 「さっき、 佐藤さんとそっくりの人をコンビニで見たんですよ。あれは、佐藤さんのドッペルゲンガーかもしれない」 私はその同僚から、 ドッペルゲンガーの説明と「自分の ドッペルゲンガーに会うと、死んでしまうらしい 」などという物騒な話を聞かされることになった。 私は「死ぬのは嫌だが、そんなに似ている人がいるなら見て見たい」と恐怖よりも好奇心の方が勝り、時折そのコンビニを覗いてみたりしたのだが、結局その会社に勤めている間に、 ドッペルゲンガーらしき人物 を見かける事はなかった。 春の夜 芥川龍之介 誰か一人ぶらさがるように後ろからNさんに抱きついたものがある。Nさんは勿論びっくりした。が、その上にも驚いたことには思わずたじたじとなりながら、 肩越しに相手をふり返ると、闇の中にもちらりと見えた顔が清太郎と少しも変らないことである。いや、変らないのは顔ばかりではない。五分刈りに刈った頭でも、紺飛白らしい着物でも、ほとんど清太郎とそっくりである。 (春の夜 芥川龍之介より) 「清太郎?――ですね。あなたはその人が好きだったんでしょう?」 (春の夜 芥川龍之介より) 芥川龍之介 の「春の夜」を読んだ時、ここに書いた事を思い出した。あれから 今まで、私は自分の ドッペルゲンガーに会ったことはない。おそらくこれからもないだろう。でも自分の「それ」ではなく、むかし気になっていた女性の「それ」には、会ってみたいような気がする。 芥川龍之介 春の夜 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書の印象   杜子春   春の夜   鼻

「井伏鱒二は悪人なるの説 佐藤春夫」読書の記憶(九十二冊目)

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「井伏さんは、悪い人」 高校生の頃 「太宰治は遺書に『井伏さんは悪い人です』と書いた」 という資料を目にした。その時私は「井伏鱒二 =山椒魚の作者」程度の知識しかなかったので「遺書に書かれるくらいなのだから、 井伏はよほど悪い人なのだろう」と思っていた。 「井伏さんは、いい人」 数年後、太宰と井伏との関係について書かれた資料を読む機会があった。それによると井伏と太宰は師弟関係にあり(井伏が師匠格)太宰の妻である美知子夫人との仲人をするくらい面倒見の良い人だということがわかった。 悪い人どころか、太宰にとっては恩人 だったのだ。この資料を読んだ時から 私の中での井伏鱒二への評価は、瞬時に「とてもいい人」に変更 された。 「井伏鱒二は悪人なるの説 佐藤春夫」  そこからさらに数年後、佐藤春夫の「井伏鱒二は悪人なるの説」を読んだ。 太宰の奴はその死を決するに当つて、人間並にも女房や子供がかはいさうだなといふ人情が湧いたのである。(中略) 所詮人並の一生を送れる筈もないわが身に人並に女房を見つけて結婚させるやうな重荷を負はせた井伏鱒二は余計なおせつかいをしてくれたものだな。あんな悪人さへゐなければ自分も今にしてこんな歎きをする必要もなくあつさりと死ねるのだがなあ。 (佐藤春夫「井伏鱒二は悪人なるの説」より) 「自分が死ぬことで、残された家族には可哀想な思いをさせる。これはつまり、 井伏鱒二が妻を紹介してくれたことが原因である 。井伏が紹介しなければ、自分は結婚しなかったし、家族もできなかった。一人ならばあっさりと死ぬ事ができる。井伏はなんて罪深いことをしてくれたのだ、と太宰は考えたに違いない。だから、太宰にとって井伏は悪人なのだ」と、佐藤春夫は推測している。 いやはや、 とんでもない責任転換 だ。身勝手な理屈だ。そんなことで「悪人よばわり」された日には、いったいどのような人間が「いい人」と呼べるのだろう。これが本当ならば、かなり困った人である。   実際のところは「好漢井伏鱒二を知る程の人間で太宰の宣言を真に受ける愚人も居ない (井伏鱒二は悪人なるの説) 」という状況だったので、太宰の主張を真に受ける人はいなかったようだし、むしろ「このようなことを書いてしまう太宰のことさえも、親身に面倒を見た」ということで、井伏の株はあが

「スパイ学 アンディ・ブリッグス」読書の記憶(九十一冊目)

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ほんとうは「スパイ」に、なりたかった。 「子供のころ、本屋さんになりたかった」という事は以前どこかに書いたかと思う。実はもう一つやってみたかった仕事があった。(すでにタイトルでバレてしまっていると思うけれど)「スパイ」である。 スパイという言葉を知ったのは、自宅にあった「スパイ入門」(正確な名前は忘れてしまった)という子供向けの本を読んだことがきっかけだった。なぜこのような本が自宅にあったのかわからない。おそらく家族が知り合いから譲ってもらったのだろう。 子供の頃の僕はその「スパイ入門」を読みながら、このような仕事をやってみたいなぁ、と考えていたのだった。 当時の僕は、 スパイとは「世界中にある謎を解く仕事」 だと思っていた。まだ誰も知らない謎を、あらゆる手段を駆使して探っていく。そして見事に謎を解明し世界を救っていくような仕事だと思っていた。 シャーロックホームズが犯罪を解決する探偵ならば、スパイは世界の謎を解く探偵だと考えていた。謎を解明するために、ありとあらゆる手段を使って世界中を飛び回れるスパイは、かっこよく理想の仕事に思えたのだった。 では、なぜ僕はスパイになることを諦めたのか? それは「スパイ入門」の中にあった「スパイ占い」の内容が原因だった。 そこには「スパイに向いている星座・向いていない星座」についての解説があった。僕は夏生まれの獅子座なのだけれども、そこには 「寂しがり屋の獅子座はスパイには不向き」 と書かれてあった。子供の頃の僕には「本に書いてあることは絶対」だったので「ああ寂しがりの獅子座は、スパイには向いていないのだ」と諦めてしまったのだった。 「スパイ学 アンディ・ブリッグス」 先日図書館で「スパイ学」という子供向けの本を見つけた。それを手に取って眺めている時、ここに書いた事を思い出した。そして、あの本には「 寂しがり屋の獅子座はスパイには不向き」と書いてあったけれど、今の自分は一人で黙々と作業をする時間が多いし、ひとりで飛行機に乗ってひとりでビジネスホテルに泊まってひとりで現場に行って、ひとりで数日仕事をするようなことがあっても、特に寂しいと感じることもない。 そこそこ秘密も守れる方ではないかと思うので、 どちらかというとスパイ向きだったのではないか 、と思ったりもする。 子供のころに読んだ本の影響

「おふろやさん 西村繁男」読書の記憶(九十冊目)

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銭湯は、ぼくらの「遊び場」だった。 幼稚園に通い始めた頃の話。何ヶ月かに一度くらいのペースで、家族で銭湯へいくことがあった。子供のころの僕には、銭湯の湯船は広いプールのように見えた。湯の中で手足を伸ばすと、ふわっと身体が浮くようになる感覚が楽しかった。住んでいた借家にはシャワーがなかったので(当時は、シャワーがついていない家も多かったんですよ)頭の上から湯を浴びることができるのもうれしかった。 客が僕たち以外に誰もいなくなった時、 父は僕を背中に乗せて湯船の中を泳いでくれた 。泳ぐといっても、ほんの数メートル亀のように移動するだけだったけれど、湯をかき分けていく様子が、まるで船が海の中を進んでいく時のように思われて勇壮な気分になった。最後まで客足が途絶えず背中に乗せてもらえなかった時は、銭湯にやってくる楽しみのひとつが失われたように感じたものだった。 湯船からあがって母親たちを待っている時、まちくたびれた父親に「女湯に行ってお母さんの様子を見てこい」と言われたことがあった。僕は「お父さんが行けばいいじゃないか」と言った。父は「オレが行くと大変なことになるけど、 お前なら大丈夫だから見てこい 」と言ってきた。 その時僕は、なぜ僕なら大丈夫で父親だと駄目なのかが、わからなかった。そして、父親が駄目なら自分も駄目なはずだと考え、女湯へ行くのを頑なに拒否したのだった。 僕は、風呂から上がってきた母親に「お父さんに、女湯へ行けと言われた」と報告した。たぶん僕は母親に「女湯に来てはダメ」と言ってもらいたかったのだと思う。 自分の判断が正しかったことを、認めてもらいたかった のだと思う。でも母親は・・・何と答えたのかはもう忘れてしまった。母親はただなんとなく笑って、そのままみんなで外に出たような気がする。 「おふろやさん」には、昭和の情緒溢れる銭湯の絵が描かれていた。それは、当時の僕たちが利用していた銭湯とは少し異なっていたけれど、それでもどこか懐かしいような気分になった。そしてページをめくりながら「自分にも父親の背中に乗れるくらい小柄だった時期があったのだ」としみじみ思ったのだった。

「犯罪 横光利一」読書の記憶(八十九冊目)

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逃げたセキセイインコと、留まったセキセイインコ 中学生の頃、自宅で二羽のセキセイインコ飼っていた。オスとメスのつがいで、いつも仲良く止まり木に並び、話をするように鳴いていた。 飼い始めてから数ヶ月が過ぎた頃、メスのインコが、くちばしで鳥籠の入り口の格子戸を器用に開け閉めするようになった。 カシャン、カシャン、と格子戸を上下させる音を耳にする度に、ああ、またやってる。そのうち鳥籠から出て行ってしまうんじゃないか、と考えた。しかし開けることはできても、外に出ようとした瞬間に閉じてしまうから実際に出て行くことはないだろう、とも考えていた。 それから数週間後、 籠の中には雄のインコが一羽だけになっていた 。雌のインコは自分で格子戸を開けて逃げてしまったのだった。一羽になったインコは、どこか寂しそうに見えた。かわいそうだから新しいインコを探してこようか、と家族で話しつつも結局そのまま時間が過ぎていった。 そして数年後、インコは一羽で静かに息をひきとった。何の予兆も前触れもなく、ある日突然、籠の中に小さくなって倒れていた。それを最初に見つけたのは誰だったろう。あの小さい体をどこに埋めてやっただろう。今ではもう、なにもかもすっかり忘れてしまった。 「逃がしてやらう」私は籠の格子戸を開けた。然れ共彼女は容易に出なかつた。で、反対の方を叩くと漸つと出て、庭の上をピヨンピヨン飛んで、植木鉢の楓の下を出たり入つたりしてゐた。 (犯罪 横光利一より) 横光利一の「犯罪」 を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。逃げていった彼女と、ここにとどまった彼。そのどちらが幸せな一生だったのだろう。彼は、外へ出たいと思っていただろうか。彼女は、彼に会いたいと思うことはあっただろうか。二人はまた、再会することができただろうか。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「はじめてのキャンプ 林明子」読書の記憶(八十八冊目)

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はじめてのキャンプが、僕の価値観を決定づけた。 小学三年生の時の話。同じクラスにボーイスカウトに入隊しているS君がいた。夏休みが近くなった頃、Sくんに 「キャンプに行かないか」と誘われた。 詳しく話を聞くと、ボーイスカウトの夏キャンプがあり、そこに一般の人も体験参加できるということだった。 特に夏休みの予定がなかった僕は、誘われるまま参加することにした。そしてこれが僕の 「はじめてのキャンプ」 になった。 圧倒的な開放感と自由な世界「キャンプはすごい!」 キャンプの日程は一泊二日だったと思う。ここでは、学校や親には「危ないからやめなさい」といわれそうなことも 「さあ、気をつけてやってみよう!」と背中を押してくれる 。靴のまま川に入ってびちょびちょに濡らしても、シャツが汚れて泥だらけになっても、怒る人はいない。夜はキャンプファイヤーで歌って過ごし、朝は飛び起きてすぐにイベントが始まる。 とても二日間とは思えないような充実した時間が過ぎ、圧倒的な開放感と自由な世界を満喫したのだった。 今から考えれば、ちょっとした野外でのレクレーション程度の内容だったのかもしれない。それでも、野外で遊ぶ経験が少なかった当時の僕にとって、すべてのイベントは未体験でワクワクする新鮮なものばかりだった。 「キャンプはすごい! おもしろい! また行きたい!」 と、夏休みの作文にわくわくする気持ちを綴ったことを覚えている。 平らな地面と、抜けるような空。 あれから数十年の時間が流れた。今でも、年に何度かキャンプに出かけていく。小さなテントと最小限の煮炊きができる道具を持って、車に乗って出かけていく。一泊では物足りない。二泊なら、ちょっとゆとりができる。三泊くらいがちょうどいい。 社会人になると、なかなかまとまった休みは取れないけれども、それでも日程を組んで出かけていく。山奥で人気がなくて、設備はボロボロでも平らな地面と抜けるような空のテント場を見つけると、わくわくする。 林明子 の「 はじめてのキャンプ 」を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。僕にとっての「はじめてのキャンプ」は、あの夏のキャンプであり 「キャンプの原風景」 なのだ。