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「スパイ学 アンディ・ブリッグス」読書の記憶(九十一冊目)

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ほんとうは「スパイ」に、なりたかった。 「子供のころ、本屋さんになりたかった」という事は以前どこかに書いたかと思う。実はもう一つやってみたかった仕事があった。(すでにタイトルでバレてしまっていると思うけれど)「スパイ」である。 スパイという言葉を知ったのは、自宅にあった「スパイ入門」(正確な名前は忘れてしまった)という子供向けの本を読んだことがきっかけだった。なぜこのような本が自宅にあったのかわからない。おそらく家族が知り合いから譲ってもらったのだろう。 子供の頃の僕はその「スパイ入門」を読みながら、このような仕事をやってみたいなぁ、と考えていたのだった。 当時の僕は、 スパイとは「世界中にある謎を解く仕事」 だと思っていた。まだ誰も知らない謎を、あらゆる手段を駆使して探っていく。そして見事に謎を解明し世界を救っていくような仕事だと思っていた。 シャーロックホームズが犯罪を解決する探偵ならば、スパイは世界の謎を解く探偵だと考えていた。謎を解明するために、ありとあらゆる手段を使って世界中を飛び回れるスパイは、かっこよく理想の仕事に思えたのだった。 では、なぜ僕はスパイになることを諦めたのか? それは「スパイ入門」の中にあった「スパイ占い」の内容が原因だった。 そこには「スパイに向いている星座・向いていない星座」についての解説があった。僕は夏生まれの獅子座なのだけれども、そこには 「寂しがり屋の獅子座はスパイには不向き」 と書かれてあった。子供の頃の僕には「本に書いてあることは絶対」だったので「ああ寂しがりの獅子座は、スパイには向いていないのだ」と諦めてしまったのだった。 「スパイ学 アンディ・ブリッグス」 先日図書館で「スパイ学」という子供向けの本を見つけた。それを手に取って眺めている時、ここに書いた事を思い出した。そして、あの本には「 寂しがり屋の獅子座はスパイには不向き」と書いてあったけれど、今の自分は一人で黙々と作業をする時間が多いし、ひとりで飛行機に乗ってひとりでビジネスホテルに泊まってひとりで現場に行って、ひとりで数日仕事をするようなことがあっても、特に寂しいと感じることもない。 そこそこ秘密も守れる方ではないかと思うので、 どちらかというとスパイ向きだったのではないか 、と思ったりもする。 子供のころに読んだ本の影響

「おふろやさん 西村繁男」読書の記憶(九十冊目)

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銭湯は、ぼくらの「遊び場」だった。 幼稚園に通い始めた頃の話。何ヶ月かに一度くらいのペースで、家族で銭湯へいくことがあった。子供のころの僕には、銭湯の湯船は広いプールのように見えた。湯の中で手足を伸ばすと、ふわっと身体が浮くようになる感覚が楽しかった。住んでいた借家にはシャワーがなかったので(当時は、シャワーがついていない家も多かったんですよ)頭の上から湯を浴びることができるのもうれしかった。 客が僕たち以外に誰もいなくなった時、 父は僕を背中に乗せて湯船の中を泳いでくれた 。泳ぐといっても、ほんの数メートル亀のように移動するだけだったけれど、湯をかき分けていく様子が、まるで船が海の中を進んでいく時のように思われて勇壮な気分になった。最後まで客足が途絶えず背中に乗せてもらえなかった時は、銭湯にやってくる楽しみのひとつが失われたように感じたものだった。 湯船からあがって母親たちを待っている時、まちくたびれた父親に「女湯に行ってお母さんの様子を見てこい」と言われたことがあった。僕は「お父さんが行けばいいじゃないか」と言った。父は「オレが行くと大変なことになるけど、 お前なら大丈夫だから見てこい 」と言ってきた。 その時僕は、なぜ僕なら大丈夫で父親だと駄目なのかが、わからなかった。そして、父親が駄目なら自分も駄目なはずだと考え、女湯へ行くのを頑なに拒否したのだった。 僕は、風呂から上がってきた母親に「お父さんに、女湯へ行けと言われた」と報告した。たぶん僕は母親に「女湯に来てはダメ」と言ってもらいたかったのだと思う。 自分の判断が正しかったことを、認めてもらいたかった のだと思う。でも母親は・・・何と答えたのかはもう忘れてしまった。母親はただなんとなく笑って、そのままみんなで外に出たような気がする。 「おふろやさん」には、昭和の情緒溢れる銭湯の絵が描かれていた。それは、当時の僕たちが利用していた銭湯とは少し異なっていたけれど、それでもどこか懐かしいような気分になった。そしてページをめくりながら「自分にも父親の背中に乗れるくらい小柄だった時期があったのだ」としみじみ思ったのだった。

「犯罪 横光利一」読書の記憶(八十九冊目)

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逃げたセキセイインコと、留まったセキセイインコ 中学生の頃、自宅で二羽のセキセイインコ飼っていた。オスとメスのつがいで、いつも仲良く止まり木に並び、話をするように鳴いていた。 飼い始めてから数ヶ月が過ぎた頃、メスのインコが、くちばしで鳥籠の入り口の格子戸を器用に開け閉めするようになった。 カシャン、カシャン、と格子戸を上下させる音を耳にする度に、ああ、またやってる。そのうち鳥籠から出て行ってしまうんじゃないか、と考えた。しかし開けることはできても、外に出ようとした瞬間に閉じてしまうから実際に出て行くことはないだろう、とも考えていた。 それから数週間後、 籠の中には雄のインコが一羽だけになっていた 。雌のインコは自分で格子戸を開けて逃げてしまったのだった。一羽になったインコは、どこか寂しそうに見えた。かわいそうだから新しいインコを探してこようか、と家族で話しつつも結局そのまま時間が過ぎていった。 そして数年後、インコは一羽で静かに息をひきとった。何の予兆も前触れもなく、ある日突然、籠の中に小さくなって倒れていた。それを最初に見つけたのは誰だったろう。あの小さい体をどこに埋めてやっただろう。今ではもう、なにもかもすっかり忘れてしまった。 「逃がしてやらう」私は籠の格子戸を開けた。然れ共彼女は容易に出なかつた。で、反対の方を叩くと漸つと出て、庭の上をピヨンピヨン飛んで、植木鉢の楓の下を出たり入つたりしてゐた。 (犯罪 横光利一より) 横光利一の「犯罪」 を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。逃げていった彼女と、ここにとどまった彼。そのどちらが幸せな一生だったのだろう。彼は、外へ出たいと思っていただろうか。彼女は、彼に会いたいと思うことはあっただろうか。二人はまた、再会することができただろうか。 横光利一   時間   頭ならびに腹   犯罪

「はじめてのキャンプ 林明子」読書の記憶(八十八冊目)

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はじめてのキャンプが、僕の価値観を決定づけた。 小学三年生の時の話。同じクラスにボーイスカウトに入隊しているS君がいた。夏休みが近くなった頃、Sくんに 「キャンプに行かないか」と誘われた。 詳しく話を聞くと、ボーイスカウトの夏キャンプがあり、そこに一般の人も体験参加できるということだった。 特に夏休みの予定がなかった僕は、誘われるまま参加することにした。そしてこれが僕の 「はじめてのキャンプ」 になった。 圧倒的な開放感と自由な世界「キャンプはすごい!」 キャンプの日程は一泊二日だったと思う。ここでは、学校や親には「危ないからやめなさい」といわれそうなことも 「さあ、気をつけてやってみよう!」と背中を押してくれる 。靴のまま川に入ってびちょびちょに濡らしても、シャツが汚れて泥だらけになっても、怒る人はいない。夜はキャンプファイヤーで歌って過ごし、朝は飛び起きてすぐにイベントが始まる。 とても二日間とは思えないような充実した時間が過ぎ、圧倒的な開放感と自由な世界を満喫したのだった。 今から考えれば、ちょっとした野外でのレクレーション程度の内容だったのかもしれない。それでも、野外で遊ぶ経験が少なかった当時の僕にとって、すべてのイベントは未体験でワクワクする新鮮なものばかりだった。 「キャンプはすごい! おもしろい! また行きたい!」 と、夏休みの作文にわくわくする気持ちを綴ったことを覚えている。 平らな地面と、抜けるような空。 あれから数十年の時間が流れた。今でも、年に何度かキャンプに出かけていく。小さなテントと最小限の煮炊きができる道具を持って、車に乗って出かけていく。一泊では物足りない。二泊なら、ちょっとゆとりができる。三泊くらいがちょうどいい。 社会人になると、なかなかまとまった休みは取れないけれども、それでも日程を組んで出かけていく。山奥で人気がなくて、設備はボロボロでも平らな地面と抜けるような空のテント場を見つけると、わくわくする。 林明子 の「 はじめてのキャンプ 」を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。僕にとっての「はじめてのキャンプ」は、あの夏のキャンプであり 「キャンプの原風景」 なのだ。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹」読書の記憶(八十七冊目)

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今から数年前の話。友人の看護師さんから「村上春樹を読んでみたいと思うのだけど、何かオススメはありますか?」と質問されたことがあった。その時僕は、ちょうど読み返していた「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を薦めることにした。彼女が普段選んでいるような本や話題に上る内容から考えて、この本がちょうどいいのではないか、と思ったからだ。 彼女は「わかりました」と答えた。僕は「よかったら、貸しましょうか?」と言いかけて止めた。他人から本を借りてしまうと「読まなければいけない」という義務感が生じてしまう。貸した方も「あの本はどうだったかな」と感想を聞きたくなる。でも、彼女は 本当に読みたいと思って質問したわけではなく、話の流れでなんとなく口にしただけかもしれない。 いや本当に読みたいと思っていたとしても、 彼女は普段、仕事でとても忙しくしているということを聞いていたから、そもそも 長編を勧めたのは間違いだったかもしれない。まずは読みやすい短編にするべきだったのかもしれない。一応 短編も勧めておこうか。そんなことを考えているうちに時間になり、その日はそこで話が終わりになった。 2週間が過ぎた。彼女からメールが届いた。そこには「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを読みました。とても面白かったので〇〇を買っちゃいました」と書かれてあった。そう、彼女は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を購入して読み終え、さらに新しい作品を購入していたのだった。 本を読むのは楽しい。そして、それを誰かに勧めた時に「おもしろかった」と言ってもらえたら、さらに楽しくうれしい。僕はパソコンのディスプレイの前で、ひとりニヤニヤしながら、今度会う時に感想を聞かせて下さい、と返信した。 彼女の首筋にははじめて会ったときと同じメロンの匂いがした。私は苦労して体の向きを変え、彼女の方を向いた。それで我々はベッドの上で向きあうような格好になった。 (世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドより) 先日、本棚を整理してる時に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が目に止まった。日に焼けて擦れて、背表紙の作者名が半分消えかけてしまったピンク色の装丁は、初めてこの本を手に取った時からだいぶ時間が過ぎてしまったことを実感させてくれた。