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「月夜の浜辺 中原中也」読書の記憶(七十一冊目)

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私はあまり物を処分する方ではない。一度手に入れたもの、いただいたものは使わなくなっても整理して保管しておくほうである。普段はそれでも特に問題はない。しかし、引っ越しの時などは「どれを処分し、どれを保管しようか」と、しばらく悩むことになる。 引っ越しは「量」で料金が決まるから、捨てられないものが増えれば増えるほど料金がかかってしまう。追加費用をかけてまでも、運ぶ価値があるものなのか? と自問自答しつつも結局処分できずに段ボールが増えていく。 いや、もう少し考えてみよう。 何も感じないものは即座に処分できるし「とりあえず今は必要がないけれど、いつか使う時がくるかもしれない」と保管しておくこともない。どちらかというと、さっさと処分してしまう。それを必要としている知人がいれば「保管しておくよりも、使ってもらった方が物も喜ぶだろう」と譲ってしまう。 でも、自分が「これはとっておこう」と考えたものを処分しなければならない時は(それが一枚のパンフレットだったとしても)どこか自分の大切にしていた部分が、大きく損われてしまうような気分になってしまう。誰かが土足で入り込んできて外に運び出され、どこかの地面に、乱暴に放り投げ出されたような気分になる。 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。 月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか? 中原中也 月夜の浜辺 より(一部抜粋) 「それ」を処分することができないのは「それ」を手に入れた時の記憶を、残しておきたいからなのだと思う。手に入れた時の自分と、そばにいた人のことを、今でも大切に想っているからなのだと思う。 中原中也      月夜の浜辺   夏と悲運

「雨の上高地 寺田寅彦」読書の記憶(七十冊目)

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「はじめて来たのに、なぜか懐かしい風景」などというと、観光案内のキャッチコピーみたいだけれども、僕にもそのような気分になった風景がいくつかある。 その一つが長野県の上高地である。大正池でバスを降り、ポクポクと足音を鳴らしながら木道を歩いていく。やがて視界が開け目の前に広がる河原へと降り、しゃがんで梓川の水に手を浸した時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来たぞ!」だった。本来ならば初めてやってきたのだから「やっと、来たぞ!」が適切な表現である。しかしその時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来た」だったのである。 今までに、雑誌や写真などで上高地の風景を眺めていたから、そう思ったのかもしれない。いろいろな場所を山歩きしてるうちに、どこかで目にした風景と記憶が混ざってしまったのかもしれない。 理由はいくつかあると思う。それでも説明できない衝動的な感覚で「自分は、前にもここに立ったことがある」と感じてしまったのだった。 行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に 藍灰色 の 帷帳 を垂れたように見えている。幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。(雨の上高地 寺田寅彦より) 寺田寅彦の「雨の上高地」を読んだ時、あの時の風景が頭の中に蘇った。僕が上高地に行った時は、雨ではなく晴天の1日だった。空からまっすぐに降り注いでくる太陽の光と、山の間から注がれてくる冷たく、そして透明な水のピリッとした肌触り。そして深呼吸をすると指先にまで染み渡っていくような清廉な空気。あそこは今でも「別世界への入口」なのかもしれない。 寺田寅彦      夏目漱石先生の追憶   雨の上高地

「はじめてのおつかい 林明子」読書の記憶(六十九冊目)

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小学1年生の時の話。いやもしかしたら幼稚園の時だったかもしれない。記憶が曖昧だけれども、たぶん小学1年生の時の話だったと思う。 母親から、肉屋に買い物へ行くように頼まれた。まさに「はじめてのおつかい」というやつである。母親は僕に「今日はカレーを作るから、お肉を買ってきて」と説明したあと「牛肉のカタロース300 グラムください」という台詞を覚えさせた。僕は、それを何度も繰り返しながら、一人で歩いて近所の肉屋に向かった。 肉屋のカウンターに到着した僕は、そこに立っている店員を見上げるようにして「牛肉のカタロース300グラムください」と呪文を唱えるように言った。この呪文を唱えさえすれば、僕の役割は終了だ。あとは店員から肉の入った袋を受け取って帰るだけのはず。僕は手の中にあるお金を確認しながら、店員の返事を待っていた。 店員は僕に向かって「牛肉の肩ロース?何を作るの?」と聞いてきた。僕はカレーを作ると答えた。店員は「カレー? 豚じゃなくて牛でいいの?」と尋ねてきた。 当時の僕は、カレーに牛肉と豚肉のどちらを使うのかなんて全くわからなかった。何と返事をすればよいかさえ、わからなかった。仕方がなく僕は「牛肉のカタロースください」と、母親から教わった言葉を繰り返した。 店員は、大丈夫かしら? と言うような表情をしてから「お母さんは?」と僕に聞いた。僕は、いないと答えた。その店員が横のほうにいた他の店員と「この子、カレーを作るのに牛の肩ロースが欲しいって言ってるんだけど。豚じゃないのかね?」と話しているのが聞こえてきた。 僕は次第に、もしかして「牛肉のカタロース」と言う言葉が間違っていたのじゃないかと思い始めてきた。もしかしたら「豚肉のカタロース」だったかもしれない。どうしよう。でも確かにここまで歩いてくる途中、ずっと「牛肉のカタロース」と言い続けてきたはずだ。しかしもうすでに自信はない。「豚肉のカタロース」だったような気もしてくる。 結局その店員は「牛肉のカタロース」の入った袋を渡してくれた。「もし豚だったら交換するから、レシートと一緒に持ってきて」とも言ってくれた。僕は袋を持って家に帰った。急いで帰った。そして母親に「牛肉のカタロースを買ってきたけどこれでいいんだよね」と聞いた。母親はそれでいいんだよと答えた。ああ、やっぱり間違

「漱石先生臨終記 内田百間」読書の記憶(六十八冊目)

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前回 、私が進学塾の先生をしていた、ということを書いた。書き終えてから、あらためてその当時のことを思い返してみると、授業していた時の事よりも生徒と雑談をしていた記憶の方が多いことに気がついた。 授業が終わると、たいてい何名かの生徒が私の机の横に来て何やかやと話をしていった。わからないところを質問に来る生徒もいないわけではなかったけれども、ほとんどの生徒が意味のないような雑談をして帰っていくのだった。 ある日の授業の後のできごとだった。帰り際に、三人の女子生徒が「先生さようなら!」と挨拶をしてきた。その時私は書類を書いていたので、そのまま顔を上げずに「さようなら」と答えた。すると生徒の一人が「先生、次に会うのは一週間後なのだから、ちゃんとこちらを見て挨拶をしてください」と言った。私は、あわてて顔を上げると、その子達に向かってさよならと言った。三人の女子は顔を見合わせるようにして、ニヤニヤと笑った。そして、手を顔の横で振りながら、さようならと帰って行った。 私は、来週あの子たちが教室にやってきたならば「こんにちは!」と大袈裟に挨拶してやろうと思った。実際に言ったかどうかは忘れてしまった。多分、思っただけで実行はしなかったように思う。 「何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事ができなかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入した人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談も云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持ちが取れなかった。 (漱石先生臨終記 内田百間 より一部抜粋)」 馴染める生徒は、すぐに馴染める。初めての授業の後でも、普通に話しかけてくる生徒もいる。でも馴染めない生徒は、何回授業してもなかなか馴染めない。授業が気に入らないのかな、面談の時に保護者に話を伺ってみると「先生の授業は楽しいと言っていました」と、それなりに気に入ってくれていたりもする。もちろん、その逆の場合もある。なかなか難しい。しかし、このあたりに気を配っておかないと、授業の雰囲気にも関係したりすることがあるので、おろそかにすることはできない。先生は先生で、それなりに気を使っているのだ。

「夏目漱石先生の追憶 寺田寅彦」読書の記憶(六十七冊目)

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大学を卒業してから初めてついた職業が「進学塾の先生」だった。碌に研修も指導も受けずに教壇に立たされ、生徒の前で授業をしたのだった。特に教師の仕事がしたかった、と言うわけでもない。教育の仕事に興味があったとい うわけでもない。そもそも自分が何かを教えるとか、先生として生徒の前に立つということに相応しい人間であるようにも思えなかった。 それでも気がつくと、長いこと教育の仕事を続けてきた。単純に考えて数百人以上の生徒の前に立ち、数千時間ほど授業をしてきたと思う。たぶん、なんだかんだでそのくらいは授業をしたと思う。そして最近では、学生のみならず社会人の皆さんの前にも先生として偉そうに立っている自分がいる。経営者の方とか、自分よりもだいぶ歳上で人生経験豊富な人たちの前にスーツを着て立っていたりする。 もしかしたら、教師と言う仕事は自分に合っていたのかもしれない。いや合ってはいなかったけれど、長い間この仕事を続けてきたことで「先生としての振る舞い」がなんとなく身に付いてきたのかもしれない。それでもこうやって続けて来れたという事は、それなりに適性のようなものがあったのではないか、と思うようにもしている。 夏目漱石が作家になる前に教師をしていたということを知った時には、自分と共通点ができたような(とはいっても漱石先生と自分とでは、大きなとんでもなく大きな隔たりはあるけれども)そんな気がした。 それと同時に、漱石先生は一体どんな授業したのだろう、ということが気になっていた。 当時でも、漱石先生の授業を受けられた生徒は本当に限られた、選ばれた人たちだったと思うけれども、もし可能ならば先生の授業受けてみたかった。立ち見でも、廊下の隅からでもいいから受講してみたかったなと思っていた。 先日、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」という作品の中に、漱石先生の授業の様子が記されているのを見つけた。 「松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣り方であつた。先生が唯すらすら音読して行つて、さうして「どうだ、分かったか」と云った風であつた。さうかと思うと、文中の一節に関して、色色のクォーテーションを黒板に書くこともあつた。」 「教場へはひると、先づチョッ

「愛読書の印象 芥川龍之介」読書の記憶(六十六冊)

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「人の名前や地名」を覚えることが苦手だった。映画や小説を読んでいる時に「〇〇はどうした?」などのセリフが出ると「〇〇って誰だった?」と前に戻って調べる事も少なくない。というより、かなりある。暗記法のようなことを試してみたこともあったのだけど、やはりうまくいかない。 思い出せないもどかしさ。これはわりと深刻な ストレスである。 以前、勤めていた進学塾の塾長先生は生徒の名前を覚えることがとても早く、入会したばかりの生徒でも「〇〇さん、英語の授業はどうでしたか?」と、名前を呼んで話しかけているのをよく目にした。一度「どうやれば、そんなに早く生徒の名前を覚えられるのですか?」と聞いてみた。すると「私がこの仕事を始めた時に、先輩から『まずは生徒の名前を覚えること』と言われたので、それをずっと実行している。特にコツのようなものはない」という言葉が返ってきた。やはり努力の賜物なのだな、と感心した。それから心を入れ替えて覚えようと試みたものの、なかなかうまくいかないので、結局常に名簿を持ち歩いて、名前を呼ぶ時には確認するようにしていた。つまりそう、挫折したのだった。 最近ではスマートフォンを持ち歩いているので、わからないことがあればすぐに検索して調べてしまう。細かな事を覚える必要がなくなってきたので、この調子で行くと、ますます記憶力が衰えていくのではないか? といささか不安にもなったりしている。 しかしそのかわり、と言ったら変かもしれないが、映画の場面や小説の一文などは割と細かいところを覚えていることも多いので記憶力全体をプラスマイナスで考えたら、なんとか「ややマイナス」まで戻せるのかな、と自分自身を庇ってみた。 愛読書の印象 芥川龍之介 芥川龍之介 「愛読書の印象」の中に 「一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。(愛読書の印象 芥川龍之介より)」 と言う一文がある。芥川は「よし、一百八人を全員覚えよう」と気合を入れて覚えたのだろうか。それとも繰り返し読むうちに、なんとなく覚えたのか?  そこまでは書かれていないのでわからないけれど、想像してみるに「ちょっと本気を出してみようかな」と、三日くらい集中して覚えてしまったのではないか? いや、芥川はかなりの速読&多読だったらしいので、あの天才的な頭脳と組み合わ

「早春 芥川龍之介」読書の記憶(六十五冊)

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僕は、待ち合わせをする時は大体15分前には、目的地周辺に到着するようにしている。周辺をぶらぶらと散歩しつつ、時間になったら待ち合わせの場所に向かうことが多い。几帳面と言うよりは、時間ギリギリに出発して渋滞などに巻き込まれたりして「間に合うか? 大丈夫か?」などと気にして焦るのが嫌なので、それなら少し早めに行ってゆっくり行動した方がいい、と思っているからだ。 しかし、一度だけ相手を1時間ほど待たせたことがある。あれは僕がまだ学生で、携帯電話もメールも存在していなかった時代のことである。 その時も僕は、時間通りに向かったつもりだった。ところが相手は僕が到着する 1 時間前にそこに到着していて待っていたのだと言う。話を聞いてみると事前の電話で僕が、「 3 時の待ち合わせにしよう。あ、でも 2 時でも大丈夫かな。いややっぱり 3 時かな」と言ったのだそうだ。 相手はメモを残していなかったので、2時か3時か記憶が曖昧になってしまい、待ち合わせ当日、僕の家に電話をかけて確認しようとしたらしい。ところがすでに僕は外出していて連絡が取れなかったので、2時に来たのだと言う。今ならば、メールや携帯電話ですぐに確認できる。しかし当時はメールはもちろん、携帯電話どころか電話も家に一台しかなかったので、タイミングを外すとこんなことになってしまうのだった。物心がついた頃から、既に携帯電話を知っている世代の人達には、考えられないエピソードだと思う。 早春 芥川龍之介 二時四十分。  二時四十五分。 三時。  三時五分。 三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気のない爬虫類の標本室を後ろに石の階段を下りて行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗い石の階段を。 「芥川龍之介 早春より 一部抜粋」 芥川龍之介 の「早春」を読んだとき、この時のことを思い出した。あれからもう 20 年以上の時間が過ぎた。あの時から今まで、相手を 1 時間以上も待たせた事は今のところ 1 度もない。多分ない。いや忘れていなければきっとない。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書