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「太宰治との一日 豊島与志雄」読書の記憶(七十六冊目)

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深夜(22時)の電話 少し前の話。その時私は自宅で一人作業をしていた。知り合いのSさんから「今大丈夫ですか?」とメールが届いた。まもなく22時になるところだった。S さんからその時間帯に相談を受ける事は滅多にないので、何かあったのだろうか? と、こちらから電話をかけてみることにした。 「仕事で色々あって。なんだかほんとにごちゃごちゃして」 S さんは、ここ数日の間のできごとを話し始めた。しかし数分もすると、話題は別のものに変わっていた。結局 30 分ほど話をしたと思う。Sさんは、なんとなく軽やかな声になって電話を切ったのだった。 「今日は愚痴をこぼしに来ました。愚痴を聞いて下さい。」と太宰は言う。 (中略) 然し、愚痴をこぼしに来たと言いながら、それだけでもう充分で、愚痴らしいものを太宰は何も言わなかった。──その上、すぐ酒となった。 (太宰治との一日  豊島与志雄より一部抜粋) おそらくSさんは、誰かと話をしたかったのだと思う。夜遅い時間になっていたけれども、私ならば、この時間でも何かしていることが多いので大丈夫だろう、と思って連絡を寄越したのだと思う。 明確なアドバイスが必要な時もある。厳しく批評されることで考えがまとまることもある。それでも「ただ自分の話を聞いてくれる相手がいる」ことを確かめるだけで、大抵の出来事は乗り切れるのではないか。 話を聞いたり、聞いてもらったり、そんな相手がいてくれるのなら百人力なのだと思う。 「 太宰治 との一日  豊島与志雄」を読んでそんなことを考えました。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「一問一答 太宰治」読書の記憶(七十五冊目)

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「佐藤さんのように、成功した人の場合は・・・」 セミナーの依頼を受けた時の話。事前に内容について打ち合わせがしたいとの事で、指定された場所へ出かけていった。先方は二名で、こちらは私一人。合計三人で打ち合わせが進んでいった。 担当の方がしっかりと準備をしてくださっていたので、私たちは滞りなく内容を詰めていくことができた。一通り打ち合わせが進み、最後にセミナーの告知に使用する文章を考えて欲しいということになった。担当の方は、資料を広げながら、 「佐藤さんのように成功した人の場合は … 」と話を始めた。 「成功した人?」 私は「成功した人」という言葉に反応した。自分が成功しているとは微塵も考えていなかった。成功という定義にも色々なものがあるけれども、お世辞にも自分がどこかの分野で成功しているとは思えなかった。 もしかすると、私の話し方に「成功している人」を装うような鼻についた態度があったのではないか? そもそも自分のような「成功していない人間」が講師として依頼を受けるということが間違っていたのではないか、と恐縮してしまったのだった。 「太宰治 一問一答」 ばかに、威張ったような事ばかり言って、すみませんでした。 (太宰治 一問一答より) 太宰治 の「一問一答」を読んだ時に、ここに書いたことを思い出した。なるべく自分のことを話す時には「威張ったことを言わないように・・・」と心がけているけれど、それでもついつい調子に乗ってしまい、最後には「すみませんでした」という気分になることも少なくない。と、いうかほぼ毎回そういう気分になるのだった。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「猫の事務所 宮沢賢治」読書の記憶(七十三冊目)

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小学四年生の時の話。国語の時間だった。担任のS先生が、教科書に掲載されている小説の一段落を読み上げた。そしてその中の一文を黒板に書くと「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と、僕たちに質問をした。 何人かが答えた後、僕も指名された。僕は「作者は『動物達が踊っているように見えた』と言いたかったのだと思います」と答えた。先生は「あー、そう。次、〇〇さん」というように、特に良いとも悪いともなく授業は進み、次に当てられた生徒が答えたところで、その日の国語の授業は終わりになった。 数日後の国語の時間。S先生は前回と同じ部分を読むと 「ここで作者は何を表現したかったと思いますか?」と質問をした。 僕は(この前の授業で自分の感想は言ったから、今回はいいだろう)と手を上げずに黙っていることにした。するとT君が、すっ、と手を上げるのが見えた。そして「作者には、動物たちが踊っているように見えたのだと思います」と言った。そう、前回僕が言った内容と同じ事を繰り返したのだった。 ところが先生の反応は、僕の時の「それ」とは違っていた。先生は「おお!それは、なかなか面白い読み方だね。うん、面白い!」とT君の感想を絶賛した。僕は、あれ? と思った。小学四年生の僕でも明らかにわかるほど、S先生の反応は僕の時の「それ」とは何かが決定的に異なっていたのだ。 僕は「前回、僕も同じことを言ったよ!」と主張しようと思いながらも、そのまま黙っていた。小学生の僕の頭の中には、悲しみとも怒りとも表現できないような感情が渦巻いていて、どうすればよいのかわからなかった。先生は黒板に「動物達が、踊っているように見えた」と大きく書いた。そして、これはいいなあ、とまたT君を褒めた。 その時だった。 クラスの中でも元気な女子の一人 が「それって、このまえ佐藤君も同じことを言ってたよ」と先生に向かって言った。そして僕に「そうだよね」と同意を求めてきた。僕は、うん、とうなづいた。先生は、そうか? と僕に背を向けたまま言った。 猫の事務所 宮沢賢治 「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、 遺骸 は水葬せらる。」一番書記の白猫が、 かま 猫の原簿で読んでゐます。 かま 猫はもうかなしくて、かなしくて 頬 のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つ

「注文の多い料理店 新刊案内 宮沢賢治」読書の記憶(七十二冊目)

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「犬が走って、こちらへやってきた」 今あなたの頭の中には「犬」の姿が思い浮かんだことだろう。それは自分の家で飼っている犬であったり、友人や知人の犬、もしくは歩いてる途中に見かけた散歩中の犬、今までに様々なところで出会ってきた犬が、思い浮かんだと思う。 さらに、犬が好きな人ならば「かわいい」「楽しそう」「きっと耳を寝かせながら、跳ねるようにして、一生懸命にこっちに向かっているんだろうな」などと、楽しい感情がわき起こっているだろう。 犬が苦手な人ならば、過去に犬が苦手になった体験を思い出して、「走ってきたから逃げなくちゃ」「怖いなぁ」というような感覚を思い起こしているだろう。「やっぱり私は猫がいいな」と考える人もいるだろう。 「犬が走って、こちらへやってきた」 全く同じ一文であったとしても、頭の中に浮かぶイメージは、十人いれば十人が異なる。 言葉は過去の記憶とつながってできているから、同じ過去の記憶を持った人は存在しない。それらのフィルターを通して広がっていくイメージと感情が「まったく同じ」になることはありえないからだ。 イーハトヴは一つの地名である。(中略)じつにこれは 著者の心象 中に、このような 状景 をもって 実在 した ドリームランドとしての日本岩手県である 。 (注文の多い料理店 新刊案内 より一部抜粋)   この童話集の一列は実に作者の心象スケッチ の 一部 である。 (同) 宮沢賢治の「 注文の多い料理店 新刊案内」の中に、このような部分がある。 学生の頃にこの文章を読んだ時は、あまり意味がわからなかった。つまりこれは賢治の空想の世界ということなのか。 それとも賢治だけに見える特殊な世界なのか、いや答えなんて何もなくて「作品」としてこの言葉自体を楽しみ、思考を試みるところに意味があるのか、そんなことを考えていた。 これらはけっして 偽 でも 仮 空でも 窃盗 でもない。 多少 の 再度 の 内省 と 分析 とはあっても、たしかにこのとおりその時 心象 の中に 現 われたものである。 (同) そして、今、私はこんな風に考えている。 賢治 が現実の世界に目を向け、それに対して考察を行った時、賢治のフィルターを通して取り込んだ彼の頭の中には「ドリームランド」が映っていたのだと思う。 作者はそこに感じる風と

「月夜の浜辺 中原中也」読書の記憶(七十一冊目)

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私はあまり物を処分する方ではない。一度手に入れたもの、いただいたものは使わなくなっても整理して保管しておくほうである。普段はそれでも特に問題はない。しかし、引っ越しの時などは「どれを処分し、どれを保管しようか」と、しばらく悩むことになる。 引っ越しは「量」で料金が決まるから、捨てられないものが増えれば増えるほど料金がかかってしまう。追加費用をかけてまでも、運ぶ価値があるものなのか? と自問自答しつつも結局処分できずに段ボールが増えていく。 いや、もう少し考えてみよう。 何も感じないものは即座に処分できるし「とりあえず今は必要がないけれど、いつか使う時がくるかもしれない」と保管しておくこともない。どちらかというと、さっさと処分してしまう。それを必要としている知人がいれば「保管しておくよりも、使ってもらった方が物も喜ぶだろう」と譲ってしまう。 でも、自分が「これはとっておこう」と考えたものを処分しなければならない時は(それが一枚のパンフレットだったとしても)どこか自分の大切にしていた部分が、大きく損われてしまうような気分になってしまう。誰かが土足で入り込んできて外に運び出され、どこかの地面に、乱暴に放り投げ出されたような気分になる。 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。 月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか? 中原中也 月夜の浜辺 より(一部抜粋) 「それ」を処分することができないのは「それ」を手に入れた時の記憶を、残しておきたいからなのだと思う。手に入れた時の自分と、そばにいた人のことを、今でも大切に想っているからなのだと思う。 中原中也      月夜の浜辺   夏と悲運

「雨の上高地 寺田寅彦」読書の記憶(七十冊目)

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「はじめて来たのに、なぜか懐かしい風景」などというと、観光案内のキャッチコピーみたいだけれども、僕にもそのような気分になった風景がいくつかある。 その一つが長野県の上高地である。大正池でバスを降り、ポクポクと足音を鳴らしながら木道を歩いていく。やがて視界が開け目の前に広がる河原へと降り、しゃがんで梓川の水に手を浸した時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来たぞ!」だった。本来ならば初めてやってきたのだから「やっと、来たぞ!」が適切な表現である。しかしその時、僕の頭の中に浮かんだ言葉は「また、ここに来た」だったのである。 今までに、雑誌や写真などで上高地の風景を眺めていたから、そう思ったのかもしれない。いろいろな場所を山歩きしてるうちに、どこかで目にした風景と記憶が混ざってしまったのかもしれない。 理由はいくつかあると思う。それでも説明できない衝動的な感覚で「自分は、前にもここに立ったことがある」と感じてしまったのだった。 行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に 藍灰色 の 帷帳 を垂れたように見えている。幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。(雨の上高地 寺田寅彦より) 寺田寅彦の「雨の上高地」を読んだ時、あの時の風景が頭の中に蘇った。僕が上高地に行った時は、雨ではなく晴天の1日だった。空からまっすぐに降り注いでくる太陽の光と、山の間から注がれてくる冷たく、そして透明な水のピリッとした肌触り。そして深呼吸をすると指先にまで染み渡っていくような清廉な空気。あそこは今でも「別世界への入口」なのかもしれない。 寺田寅彦      夏目漱石先生の追憶   雨の上高地

「漱石先生臨終記 内田百間」読書の記憶(六十八冊目)

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前回 、私が進学塾の先生をしていた、ということを書いた。書き終えてから、あらためてその当時のことを思い返してみると、授業していた時の事よりも生徒と雑談をしていた記憶の方が多いことに気がついた。 授業が終わると、たいてい何名かの生徒が私の机の横に来て何やかやと話をしていった。わからないところを質問に来る生徒もいないわけではなかったけれども、ほとんどの生徒が意味のないような雑談をして帰っていくのだった。 ある日の授業の後のできごとだった。帰り際に、三人の女子生徒が「先生さようなら!」と挨拶をしてきた。その時私は書類を書いていたので、そのまま顔を上げずに「さようなら」と答えた。すると生徒の一人が「先生、次に会うのは一週間後なのだから、ちゃんとこちらを見て挨拶をしてください」と言った。私は、あわてて顔を上げると、その子達に向かってさよならと言った。三人の女子は顔を見合わせるようにして、ニヤニヤと笑った。そして、手を顔の横で振りながら、さようならと帰って行った。 私は、来週あの子たちが教室にやってきたならば「こんにちは!」と大袈裟に挨拶してやろうと思った。実際に言ったかどうかは忘れてしまった。多分、思っただけで実行はしなかったように思う。 「何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事ができなかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入した人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談も云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持ちが取れなかった。 (漱石先生臨終記 内田百間 より一部抜粋)」 馴染める生徒は、すぐに馴染める。初めての授業の後でも、普通に話しかけてくる生徒もいる。でも馴染めない生徒は、何回授業してもなかなか馴染めない。授業が気に入らないのかな、面談の時に保護者に話を伺ってみると「先生の授業は楽しいと言っていました」と、それなりに気に入ってくれていたりもする。もちろん、その逆の場合もある。なかなか難しい。しかし、このあたりに気を配っておかないと、授業の雰囲気にも関係したりすることがあるので、おろそかにすることはできない。先生は先生で、それなりに気を使っているのだ。

「夏目漱石先生の追憶 寺田寅彦」読書の記憶(六十七冊目)

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大学を卒業してから初めてついた職業が「進学塾の先生」だった。碌に研修も指導も受けずに教壇に立たされ、生徒の前で授業をしたのだった。特に教師の仕事がしたかった、と言うわけでもない。教育の仕事に興味があったとい うわけでもない。そもそも自分が何かを教えるとか、先生として生徒の前に立つということに相応しい人間であるようにも思えなかった。 それでも気がつくと、長いこと教育の仕事を続けてきた。単純に考えて数百人以上の生徒の前に立ち、数千時間ほど授業をしてきたと思う。たぶん、なんだかんだでそのくらいは授業をしたと思う。そして最近では、学生のみならず社会人の皆さんの前にも先生として偉そうに立っている自分がいる。経営者の方とか、自分よりもだいぶ歳上で人生経験豊富な人たちの前にスーツを着て立っていたりする。 もしかしたら、教師と言う仕事は自分に合っていたのかもしれない。いや合ってはいなかったけれど、長い間この仕事を続けてきたことで「先生としての振る舞い」がなんとなく身に付いてきたのかもしれない。それでもこうやって続けて来れたという事は、それなりに適性のようなものがあったのではないか、と思うようにもしている。 夏目漱石が作家になる前に教師をしていたということを知った時には、自分と共通点ができたような(とはいっても漱石先生と自分とでは、大きなとんでもなく大きな隔たりはあるけれども)そんな気がした。 それと同時に、漱石先生は一体どんな授業したのだろう、ということが気になっていた。 当時でも、漱石先生の授業を受けられた生徒は本当に限られた、選ばれた人たちだったと思うけれども、もし可能ならば先生の授業受けてみたかった。立ち見でも、廊下の隅からでもいいから受講してみたかったなと思っていた。 先日、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」という作品の中に、漱石先生の授業の様子が記されているのを見つけた。 「松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣り方であつた。先生が唯すらすら音読して行つて、さうして「どうだ、分かったか」と云った風であつた。さうかと思うと、文中の一節に関して、色色のクォーテーションを黒板に書くこともあつた。」 「教場へはひると、先づチョッ

「愛読書の印象 芥川龍之介」読書の記憶(六十六冊)

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「人の名前や地名」を覚えることが苦手だった。映画や小説を読んでいる時に「〇〇はどうした?」などのセリフが出ると「〇〇って誰だった?」と前に戻って調べる事も少なくない。というより、かなりある。暗記法のようなことを試してみたこともあったのだけど、やはりうまくいかない。 思い出せないもどかしさ。これはわりと深刻な ストレスである。 以前、勤めていた進学塾の塾長先生は生徒の名前を覚えることがとても早く、入会したばかりの生徒でも「〇〇さん、英語の授業はどうでしたか?」と、名前を呼んで話しかけているのをよく目にした。一度「どうやれば、そんなに早く生徒の名前を覚えられるのですか?」と聞いてみた。すると「私がこの仕事を始めた時に、先輩から『まずは生徒の名前を覚えること』と言われたので、それをずっと実行している。特にコツのようなものはない」という言葉が返ってきた。やはり努力の賜物なのだな、と感心した。それから心を入れ替えて覚えようと試みたものの、なかなかうまくいかないので、結局常に名簿を持ち歩いて、名前を呼ぶ時には確認するようにしていた。つまりそう、挫折したのだった。 最近ではスマートフォンを持ち歩いているので、わからないことがあればすぐに検索して調べてしまう。細かな事を覚える必要がなくなってきたので、この調子で行くと、ますます記憶力が衰えていくのではないか? といささか不安にもなったりしている。 しかしそのかわり、と言ったら変かもしれないが、映画の場面や小説の一文などは割と細かいところを覚えていることも多いので記憶力全体をプラスマイナスで考えたら、なんとか「ややマイナス」まで戻せるのかな、と自分自身を庇ってみた。 愛読書の印象 芥川龍之介 芥川龍之介 「愛読書の印象」の中に 「一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。(愛読書の印象 芥川龍之介より)」 と言う一文がある。芥川は「よし、一百八人を全員覚えよう」と気合を入れて覚えたのだろうか。それとも繰り返し読むうちに、なんとなく覚えたのか?  そこまでは書かれていないのでわからないけれど、想像してみるに「ちょっと本気を出してみようかな」と、三日くらい集中して覚えてしまったのではないか? いや、芥川はかなりの速読&多読だったらしいので、あの天才的な頭脳と組み合わ

「早春 芥川龍之介」読書の記憶(六十五冊)

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僕は、待ち合わせをする時は大体15分前には、目的地周辺に到着するようにしている。周辺をぶらぶらと散歩しつつ、時間になったら待ち合わせの場所に向かうことが多い。几帳面と言うよりは、時間ギリギリに出発して渋滞などに巻き込まれたりして「間に合うか? 大丈夫か?」などと気にして焦るのが嫌なので、それなら少し早めに行ってゆっくり行動した方がいい、と思っているからだ。 しかし、一度だけ相手を1時間ほど待たせたことがある。あれは僕がまだ学生で、携帯電話もメールも存在していなかった時代のことである。 その時も僕は、時間通りに向かったつもりだった。ところが相手は僕が到着する 1 時間前にそこに到着していて待っていたのだと言う。話を聞いてみると事前の電話で僕が、「 3 時の待ち合わせにしよう。あ、でも 2 時でも大丈夫かな。いややっぱり 3 時かな」と言ったのだそうだ。 相手はメモを残していなかったので、2時か3時か記憶が曖昧になってしまい、待ち合わせ当日、僕の家に電話をかけて確認しようとしたらしい。ところがすでに僕は外出していて連絡が取れなかったので、2時に来たのだと言う。今ならば、メールや携帯電話ですぐに確認できる。しかし当時はメールはもちろん、携帯電話どころか電話も家に一台しかなかったので、タイミングを外すとこんなことになってしまうのだった。物心がついた頃から、既に携帯電話を知っている世代の人達には、考えられないエピソードだと思う。 早春 芥川龍之介 二時四十分。  二時四十五分。 三時。  三時五分。 三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気のない爬虫類の標本室を後ろに石の階段を下りて行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗い石の階段を。 「芥川龍之介 早春より 一部抜粋」 芥川龍之介 の「早春」を読んだとき、この時のことを思い出した。あれからもう 20 年以上の時間が過ぎた。あの時から今まで、相手を 1 時間以上も待たせた事は今のところ 1 度もない。多分ない。いや忘れていなければきっとない。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書

「鑑定 芥川龍之介」読書の記憶(六十四冊)

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今から8年ほど前の話。ある会社の経営者の方(ここでは A 氏とする)から「会社のキャッチコピーを書いてほしい」と依頼を受けた。「近々、ホームページと会社のパンフレットを作成するので、それに合わせて キャッチコピー を新しくしたい」とのこと。 会社のキャッチコピー(コーポレートスローガン)は、数年にわたって使用されるものなので「時間を乗り越えていける言葉」を探していく必要がある。時間軸を現在から未来へと移し、そこまでの道筋を行ったりきたりしながら考えてみたりもする。なかなか時間も労力も必要になるけれど、個人的には好きな仕事のひとつである。 僕は、いつものように取材と打ち合わせを何度か繰り返した後、出来上がったキャッチコピーをプレゼンした。 A さんは「これで勝負します!」と、その中のひとつを指差した。どうやら気に入っていただけたようだ。ほっ、と肩の荷を下ろして、椅子に腰掛ける。 その日の帰り際だった。「色紙を用意しますので、何か一筆書いて欲しい」と A 氏に声をかけられた。「 将来価値が出ると思うから、今 のうちに佐藤さんのサインをもらっておきたい 」と冗談とも本気ともわからないような事を、頼まれてしまったのだった。 のみならず彼等の或者は「兎に角無名の天才は安上りで好いよ」などと云つて、いやににやにや笑ひさへした。 (芥川龍之介 鑑定より) 今のところ、僕のサインの価値は上がる様子を見せない。あの時「そうですか、では一筆」などと調子に乗って書かなくてよかった。もしも書いていたのなら、価値が上がるのではなく失笑の数だけが増えていたに違いない。 芥川龍之介 の「鑑定」を読みながら、そんな事を思い出したのでした。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書の印象   杜子春   春の夜   鼻

「I can speak 太宰治」読書の記憶(六十三冊)

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小学生の頃の話。 H と言う友人がいた。彼は英会話の教室に通っていた。今でこそ小学生が英会話の教室に通うのはさほど特別なことでは無いかもしれないが、あの当時はわりと珍しい部類に入っていたと記憶している。 僕はHに「何か英語の単語教えてくれ」と頼んだ。彼はおもむろに少し得意げな表情を浮かべながら「自転車は bicycle 。三輪車は tricycle 」と言う単語を教えてくれた。僕は、Hに続いてこの二つの単語を発音してみた。どこか、新しい世界に脚を踏み入れたような、わくわくとした気分になったことを覚えている。 だけども、さ、 I can speak English. Can you speak English? Yes , I can. いいなあ、英語って奴は。(太宰治 I can speak より) 太宰治 の I can speak を読んだとき H のことを思い出した。Hとはもう 30 年以上も会っていない。その間、連絡もとっていない。道ですれ違うことがあったとしてもお互い気がつく事はないだろう。 彼は今どんなどんな仕事をしているのだろうか? 少なくとも、英語関係の仕事ではなく理数系の仕事をしているような気がする。なんとなくだけどそんな気がする。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「変な音 夏目漱石」読書の記憶(六十二冊)

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大学生の時に、一人暮らしをしていた時の話。夜部屋にいると、隣の部屋の方から音がした。小さなボールを壁に投げて当てているような「コンコン」という音だった。初日は、隣の人が部屋の壁に向かってスーパーボールでも投げて遊んでいるのだと思った。そこまで大きな音でもないので、特に気にもしなかった。翌日も、ほぼ同じ時間に同じような音がした。次の日も続いた。その音は五日間くらい連続で続いた。少し気になってきたので、バイト先の先輩にその話をしてみることにした。 「オレの部屋でも、朝になると『ドスン』という音がするんだよ」と休憩室でタバコを吸いながら先輩は言った。 「ドスン、ですか?」 「うん。上の階の人なんだけどね、目が覚めたらベットの上から床に飛び降りる癖があるらしくてさ。だいたい同じ時間に、ドスンという音がするんだ」 「毎日だと気になりますよね」 「まあ、もう慣れたけどね」 その日、家に帰ると、隣の部屋から「コツコツ」の音は聞こえてこなかった。翌日も聞こえなかった。不思議なもので、聞こえなくなると逆に気になるものだ。そろそろ聞こえてくる時間かな、と期待して待ってみても、やはり音はしなかった。そして、気がつくと音はしなくなっていた。 うとうとしたと思ううちに眼が 覚 めた。すると、隣の 室 で妙な音がする。始めは何の音ともまたどこから来るとも 判然 した 見当 がつかなかったが、聞いているうちに、だんだん耳の中へ 纏 まった観念ができてきた。何でも 山葵 おろしで 大根 かなにかをごそごそ 擦 っているに違ない。自分は 確 にそうだと思った。 (夏目漱石 変な音より) 先日、 漱石 の「 変な音 」を読み返した時に、この音を思い出した。音の原因がわかれば、何も怖くない。しかし原因がわかるまでは、色々と想像してしまう。時として疲弊してしまう。あの隣の部屋から聞こえた「コンコン」は何だったのだろう。スーパーボールを壁に当てていたのか。リズムが一定だったから、何か機材が動作する音だったのか。それとも部屋からではなく、外から聞こえていたのだろうか。今となっては答え合わせをすることはできない。 夏目漱石  掲載作品 三四郎   こゝろ   夢十夜   坊っちゃん   虞美人草   私の個人主義   明暗