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「春と修羅 宮澤賢治」読書の記憶 五十三冊目

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子供のころから読書が好きで、時間さえあれば何かの本をめくっていたような気がする。文学作品でも資料集でも電化製品のパンフレットでも、とりあえずなんでもよかった。文章を読んでさえいれば、満足するような子どもだった。ところが「詩」に興味が向くことはなかった。正確に言うと、音楽の「詞」は好きだったし、バンド活動をしている時には「詞」を書いたりもした。いわゆる文学作品としての「詩」が、あまりピンとこなかったのである。 大学一年生の時だった。下校途中に駅前の書店に立ち寄った。いつも通り、まず最初に文庫本のコーナーへ向かった。棚に並んでいる背表紙を左から右へ眺めていると、 宮沢賢治 の詩集が目にとまった。そういえば、賢治の詩をきちんと読んだことがなかったな、と思った。ちょうどバイト代も入って余裕もあるし、お金があるうちに買っておくことにした。 それから、一週間あまりが過ぎた。大学からの帰りの電車の中で、バックに入れたままだった賢治の詩集が手に当たった。他に読むものがなかったので、おもむろに最初のページをめくってみた。 わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です 宮沢賢治 春と修羅 序より こうきたか、と思った。難解な言葉だと思った。有機交流電燈? なんだろう。これは理解できないな、と思った。以前ならばそこで「次の機会にしよう」と本を閉じていただろう。ところがその時は「今ならば、もしかしたら理解できるかもしれない」「理解してみたい」という欲求が、自分の心のどこかに存在していることを感じた。 僕は駅から出て、アパートへ続く緩やかな坂道を上がっていった。だらだらと10分ほども続く坂だった。アパートを借りる時には「このくらいの坂ならば、運動になっていいだろう」と思っていたのだが、実際に住んで毎日歩くとなると骨が折れる。息があがる。なんでわざわざこんな場所のアパートを借りたのだろう、と自分のうかつさに腹を立てながら歩く。坂の中腹に差し掛かるあたりにクリーニング屋がある。以前、この店にクリーニングを頼んだところ、肝心のシミも抜けず縫製もほつれてしまったことがあった。受け取りの際に店員に確認すると「これ以上のことは何もできない。どうしようもない」と、まるで取りつく島もない対応をされてしまったのだった

「心理試験 江戸川乱歩」読書の記憶 五十二冊目

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子供のころになりたかった職業のひとつが「スパイ」だった。なぜ、この職業に魅力を感じのかというと簡単で、家にあった「スパイのすべて」のような、子供向けの本を読んだからである。 その当時の僕がスパイに抱いていたイメージといえば「暗闇の中で、裏から世の中を動かす」とか「誰にも読めない暗号などを解読し分析する」というものだったと思う。とりあえず当時から、表舞台ではなく裏で静かに活動することに関心があったことがわかる。そして今でもわりと、そのような方向を好んでしまうのは、子供のころの読書体験の影響が大きいと思われる。もしも読んだ本が「スパイのすべて」ではなく「宇宙飛行士のすべて」だったのなら、そちらの方面を目指していたかも…しれなくもない。 江戸川乱歩 の 「 心理試験 」 には、警察の心理試験を用いた尋問に対し、緻密な準備を行い罪から逃れようとする犯罪者( 蕗屋清一郎) が登場する。それを華麗に見破るのが明智小五郎であり、彼が犯罪者を追いつめていく様子を楽しむのが推理小説の醍醐味である。 ところがこの作品を読んだ時の自分は、明智ではなく 蕗屋 に魅力を感じていたように思う。目的のために、先の先を読み緻密な計画を立て確実に実行する 蕗屋 。彼は目的を完遂するために、ありとあらゆることを調べ練習を重ねていく。 「 彼は「 辞林 」の中の何万という単語を一つも残らず調べて見て、少しでも訊問され相な言葉をすっかり書き抜いた。そして、一週間もかかって、それに対する神経の「練習」をやった。 (心理試験より) 」 当時の僕は、そのような 蕗屋の 姿に「自分の中にあるスパイ像」をかさねていたのだと思う。見えないところで、徹底的に努力をする。必要ならば、辞書の中にある何万という単語をすべて調べることも厭わない。どこか、その姿勢に魅力を感じていたように思う。最終的には「裏の裏を行くやり方」で、明智の知性が 蕗屋の計画を 上回っていくわけだけれども、この作品に関しては 蕗屋側に共感してしまったのだった 。 結局のところ、僕は「スパイ」にも「探偵」にもなれなかったけれど「表に出ないところで地道に準備をし、集めた情報で推測を重ね検証し形にしていく」という部分で、今の仕事にどこかつながっていくような気がする。そう、やはり、子どものころの読書体験は

「風の又三郎 宮澤賢治」読書の記憶 五十冊目

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転校生だったころ 小学校2年生の時に「転校生」になったことがある。親の仕事の都合だった。その時は、特に嫌だという感情はなかった。ある日「引っ越しをする」と親に言われ、気がついたら別の小学校に通うことになっていた、という程度の記憶しかない。いや、その時の担任の先生が苦手な感じの先生だったので、むしろ好ましく思っていた部分もあったかもしれない。 転校初日。職員室で新しい担任の先生に挨拶をした。「今から一緒に教室へ行きますよ。みんなの前で挨拶をしてもらうから、元気にね」と、いうようなことを言われた。先生が教室のドアを開けた。後に続いて中に入ると、わーっ、という歓声が上がった。「転校生だー!」のような声も聞こえた。そのあとのことは、もう覚えていない。帰り道も、どうやって家に向かったのか覚えていない。 数日後の放課後、クラスのY君とH君が遊びに誘ってくれた。僕たちは、近くの公園へ行き、そこにあった大きめの池で遊んだ。2人はクラスでも目立つ方の生徒だった。面倒見が良くて、色々な遊びを知っている体育が得意なY君と、やさしい笑顔を持っていて、どことなく洒落た感じのするH君。2人が仲間に入れてくれたおかげで、僕は一気にクラスに溶け込むことができた。もしも2人がいなかったのなら、ひとりで本を読んでいる存在感のない小学生になっていたかもしれない。 それから数年後、今度はH君が転校することになった。それがきっかけになったのか、いつのまにかY君とも遊ばなくなった。そして、そのまま僕たちは中学生になり、もう会話をすることも挨拶さえも交わすことはなくなっていった。 今ごろ2人は、どこで何をしているのだろう。なんとなくだけど、 全く根拠はないけれど、 いつかどこかで、どちらか1人とは再会できるような気がする。そして1人と再会することができたのなら、2人でもう1人を探しに行くような気がする。長い人生の中で、そんな奇跡のようなことがひとつくらいあっても、いいのではないだろうか、と思う。 「風の又三郎 宮澤賢治」 先日、 宮沢賢治 の 風の又三郎 を読み返していた時、又三郎が「たばこの葉」を採る場面で、ここに書いた事を思い出した。とくに、同じような体験があった訳ではない。いや、もしかすると自分が忘れているだけで、似たようなことがあったのかもしれな

「私の個人主義 夏目漱石」読書の記憶 四十七冊目

予備校に通っていた時の話。現代文の授業の中で「アイデンティティ」という語句についての解説があった。細かな部分は忘れてしまったのだが「このアイデンティティという概念は日本にはないため、正確に解釈することは難しい。おおむね『自己を定義することがら』というニュアンスで考えておけばよいだろう…云々」というような内容だったと記憶している。解説を聞いても腑に落ちないところがあったので、同じ授業を受けていた友人に聞いてみたところ「なんだか、わかるようで、わからない」という返事がかえってきた。仕方がないので「もし出題された場合は、授業の解説のコメントを丸写ししておけば多少は点数がもらえるだろう」と、お茶を濁すことにしたのだった。 今、あらためて考えてみると「自己を定義できる」ということは「他者と自分の違いを定義することができる」ということだろう。つまり「他者を完全に定義(認識)することができなければ、正確に自己を定義(認識)したとはいえない」と、いうことになる。しかしながら、それは不可能である。目の前に立つ「ひとり」でさえ、すべての情報を把握し認識することはできない。どんなに情報を収集したとしても、せいぜい一部、または部分を把握するのが精一杯なのだ。さらに、昨日と今日の間にも確実に変化は生じていく。明日はどうなっているかわからない。不安定要素と変化の幅が大き過ぎる。つまり完全に「自己を定義する」ということは「不可能」なのではないか。 と、思いついたことを並べてみたのだが、なるべく詳細に解説してみようと試みるあまり、逆にわかりにくい内容になってしまった。中途半端にわかったふりをすると、このようになる。よくあるパターンである。つまりそういうことである。 先日、 漱石 の「私の個人主義」を読みながら、そんなことを考えていた。この講義の内容は、今から百年ほども前に語られたんだよなあ、とも考えた。まるでほんの数年前に語られたといっても、ほとんど違和感がないじゃないか。いったい漱石は、どこまで深く遠くまで考えを巡らせていたのだろう。 「私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。(私の個人主義 夏目漱石より)」 私の「がちり」の瞬間は、もうまもなくだろうか。もしかすると、一度くらいは「そこ」に掠ったことがあるのかもしれな

「グスコーブドリの伝記 宮沢賢治」読書の記憶 四十五冊目

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修学旅行の夜 小学六年生。修学旅行へ行った時の話。初日の夜、夕食のあとにミーティングがあった時のこと。その時ぼくは、学級委員をしていたので「今日のまとめ」のようなことを、クラスのみんなの前で話すことになった。話の内容は、もう覚えていない。せいぜい、今日はとてもよかったです、程度のことを適当に話したように思う。 僕が話し終わると、担任の先生が「今、佐藤が話したことで気がついたことはあるか?」というようなことを口にした。僕は、何か良くないことを話してしまったのだろうかと思った。たぶん、みんなもそう思ったのだと思う。その場は、しーんと静まりかえってしまった。 先生は「佐藤の声が枯れていることに気がついたか?」とみんなに問いかけた。「なんで、声が枯れたのだと思う? お前たちが、ちゃんとしないから、佐藤が大きな声を出さなくていけなかったんだ。だから、枯れてしまったんだ」「今日、クラスでいちばん頑張ったのは佐藤ではないか? みんなの前に立って、責任感を持って頑張っていたと思わないか?」と言った。 それから先生は、数人を指名して感想を述べさせた。みんな「明日からは、委員長が声を出さなくていいように、ちゃんとしたいです」「すごく偉いと思います」などと、いうようなことを言った。僕はそれを、みんなの前で立って聞いた。頭の中では、もういいから早く終わらないか、と考えていた。みんなが言うことを聞かないから声が枯れたのではなく、自分が必要以上に大きな声を出したから枯れただけだと、思っていたからだ。そしてなによりも声が枯れるということは(小六生の僕にとって)格好わるい事のように感じていたからだ。 ひと通り意見を聞いてから先生は、僕の横に立っていた副委員長に意見を求めた。副委員長の彼は(その時は、委員長も副委員長も男子だった)、えーと、と言いながら、声が枯れているような雰囲気で話し始めた。誰かが「オマエも声が枯れているようなマネをしても、ダメだ」と、からかった。みんなが笑った。 「グスコーブドリの伝記 宮沢賢治」 宮沢賢治 の「グスコーブドリの伝記」を読んだ時、ふいにこの出来事を思い出した。主人公ブドリは、みんなを助けるために一人で危険な現場へ行くと主張する。 「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとな

「閑天地 石川啄木」読書の記憶 四十四冊目

ネットで記事などを読んでいると「聖地巡礼」という言葉を目にすることがある。この場合の「聖地」とは、いわゆる宗教的な場所を指すのではなく、作品に登場した場所。つまり、映画や小説、アニメ等々の舞台になった場所を訪問して回る時に「聖地巡礼をする」と表現するようだ。正確なところはわからないが、概ねこのようなことだと理解している。 若い頃の自分は、このような「聖地巡礼」には興味がなかった。作品に登場する場所に「行ってみたいなあ」と思うことはあるものの、そのために旅をするというようなことはなかった。せいぜい旅先で観光案内などをめくりながら「おっ、ここはあのあれになったところなのか。せっかくだから寄ってみようかな」と、いうような位置づけだった。 ところが。そう。ところが昨年、斜陽館を訪問した時以来「可能ならば、できるだけ訪問してみたい」と思うようになった。とりわけ、作者が住んでいた家や場所に立ち寄って、そこで何が見えるかを楽しんでみたいと、いまさらながら思うようになったのである。 なぜ、このように考えるようになったのか? 自己分析してみると、若いころの自分は旅に「あたらしい刺激」を求めていたような気がする。今までに行ったことがない場所へ行き、見たことがないものを見る。食べた事がないものを、口にする。そこに旅の楽しみを探していたのだと思う。 もちろん、今でもそれが目的のひとつではある。しかしそれとは別に「過去の体験に触れる場所を巡る =昔の自分を振り返る」という感覚が産まれてきたのではないかと思う。 昔読んだ作品の著者にゆかりのある場所を見る。その場所に触れることで、作品を読んだ時のことを思い出す。しみじみと体感する。そのような体験を、旅に求めるようになってきたのだ。それはつまり「 歳を重ねた」ということなのだろう。マイナスの意味ではなく、それなりに経験が増えることで、振り返る楽しみも増えたのだ、と考えてみたい。 十月の連休に、盛岡市の「啄木新婚の家」を訪問した。帰宅してから啄木の「 閑天地 我が四畳半 」を読んだ。読み進めているうちに、ここに書いたようなことが頭に浮かんだ。またいつの日か、ここを訪問してみよう。何年後になるかはわからないけれど、その時私は、今日のことを思い出しながらここの風景を眺めることだろう。 関連: 啄木

「檸檬 梶井基次郎」読書の記憶 四十三冊目

予備校生だった時の話。当時は金がなかったから、授業後の楽しみといえば書店を回ることくらいだった。 予備校から出発して、まずはここ。次はこちら。そして時間がある時には、ぐるりとあそこまで足を伸ばす。のように、自分の中で「書店めぐり」のルートを作って、律儀に巡回したものだった。 あの頃は、インターネットもないしスマホもないから、情報収集といえばテレビを見るか本を読むくらいしかなかった。なので、そんな風にして書店を回る時間は貴重で重要で、充実した時間だったのだ。 書店からすれば迷惑な客だったろう。せいぜい月に1〜2冊程度しか購入しない客を歓迎するような書店が多いとは思えない。「あいつ、また来たよ」とばかりに、はたきで追い払いたい店員もいたかもしれない。 いつの日か「これと、あれと、それと」と、値段を気にせずに本を買って書店に還元できるようになることが夢だったのだが、社会人になっていくばくかのお金を使えるようになると、本以外の楽しみに費やすようになっていた。店舗で購入するのではなく、ネットの通販で購入する回数が増えた。最近では、 紙の書籍ではなく電子書籍で購入する割合も増えた。そして気がつくと、当時回っていた書店の多くは閉店してしまっていた。 梶井基次郎の「檸檬」には丸善が登場する。作品を読み終わったあと「そういえば、仙台にも丸善はあるのかな?」と気になって電話帳で(当時は、電話帳で店を探していたのだ)調べてみたところ、ごくたまに足を伸ばして立ち寄る書店が丸善だということを知った。迂闊であった。灯台下暗しとはこのことだ。 よし、 いつか海外の画集を買う時は、ここにしよう。そう思いながらも画集を買う機会はなく、長い長い時間が過ぎてしまっていた。

「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」読書の記憶 四十二冊目

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教科書に掲載されている「歴史上の人物」には、リアリティを感じなかった。確かにこの世界に存在していたことは理解できる。しかし「その世界」は、今自分達が生活している「この世界」とは、どこか次元が異なっているのではないか。彼らと同じ時間の流れの先に、自分達の世界が続いているとは思えない。そんな感覚があった。 博物館などに展示されている「遺品」をガラス越しに眺めた時の、一枚の薄いガラスに大きな隔たりを感じる時のような感覚。あちらとこちらには、別の時間と空気が流れているような、そんな感覚があった。 たとえば今、私たちは、 芥川龍之介 が書いた作品を読むことができる。彼自身が、実際にペンをとり原稿用紙を埋めていったものを、目にすることができる。理屈では「それ」を理解できる。しかしそこにはどうにもリアリティを感じにくいのだ。彼らが私たちと同じように、一文字一文字埋めていく様子が、どうにもイメージできないのである。なにか魔法のような(つまり、非現実な)技で、ふわりふわりと創作しているような印象を抱いてしまう。彼らは本当に存在したのか? 小説の登場人物のように、架空の世界に存在する架空の人物なのではないか。そんなことを空想してしまうのだった。 槍ヶ岳紀行 芥川龍之介 芥川龍之介 の「槍ヶ岳紀行」を読んだ時「ああ、芥川も山に登ったのだ」と思った。自分達と同じように、一歩一歩地面を踏みしめ「山は自然の始にして又終なり(槍ヶ岳紀行より)」と繰り返しながら頂きを目指し、土の上を歩いていったのだ、と思った。 その時私は、芥川が自分達と同じこの世界に存在し呼吸をし汗を流し、ものごとを考えながら生きてたのだ、ということが実感できたような気がした。彼らの作品は、魔法でも別世界から送られてきたものでもなく、自分達と同じ世界で生活をしていた人達が、実際に筆を走らせて書かれたものなのだ、とようやく実感できたような気がしたのだった。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書の印象   杜子春   春の夜   鼻

「虞美人草 夏目漱石」読書の記憶 四十冊目

予備校に通っていた頃の話。僕は知り合いの女性と一緒に街の中を歩いていた。彼女は、薄手の長袖シャツを一枚着ているだけだったから(なぜか、シャツの事だけは明瞭に覚えている)梅雨入りしたばかりの頃だったと思う。 アーケード街に、老舗の眼鏡屋があった。そこの看板を目にした彼女は「そろそろ新しい眼鏡をつくりたい」と、いうようなことを口にした。 「眼鏡? そんなに目が悪いんだ」と僕は聞いた。 「そう」と彼女は答えた。 「でも、普段は眼鏡をかけていないよね」 「私、目が綺麗だから、眼鏡で隠したくないの」 と、彼女は自分の目のあたりを指差しながら言った。 確かに彼女は綺麗な目をしていた。十分に美人と言える容姿をしていた。それと同時に、彼女も僕もあまり冗談を言うタイプではなかったし、互いにまだ軽口を叩けるほど親しくもなかったから、僕はすっかり返答に困ってしまった。 問題: 当時の僕は何と返したでしょう? 先日、 漱石 の「虞美人草」というタイトルを目にした時、このエピソードを思い出した。彼女とはもう何十年も会っていないし、連絡先すら知らない。道ですれ違ったとしても、お互いに気がつくことはないだろう。それでも記憶の中では、ほんの数年前のできごとのように 思える。こんなにも、はっきりと思い出せるのに、本当にそんなに長い時間が過ぎたのだろうか? 「いつの間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾くに心得ている」 (夏目漱石 虞美人草より) しかし現実として、あの日から確実にしかるべき時間が流れ去ってしまった。僕は、悟りもせず学びもせず、ただ目の前を過ぎていく風景を眺めているうちに今日まで年齢を重ねてきてしまった。人間は最後の瞬間に、今までの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡るというけれど、僕の場合は一体どのような映像が蘇ってくるのだろう。せいぜい、出会った人達と交わした 会話の断片と相手の服装程度しか、蘇ってこないかもしれない。 ・・・ さて、話を戻そう。当時の僕は何と返したか。答え

【番外編】「6月19日は、何の日ですか?」

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大学生だったころの話。授業の最初に先生が「今日は何の日か知っていますか?」と問いかけてきた。 僕は頭の中にある記憶を探ってみた。そういえば、以前予備校で聞いた話の中に……。いや、違ったかな。そんなことをぼんやりと考えていると、先生は机の上の名簿を手に取り「では、○○さん。今日は何の日か知っていますか?」と指名をした。 「○○さん」は、そう、僕の名前だった。僕は頭の中にある曖昧な答えを口にしてみようか、いやいや間違ったことを発言するくらいなら黙っていた方が良いのではないか、などと一瞬のうちに考えを巡らせた。そして「確実ではない答えを提示するくらいなら、沈黙していた方がよい」という結論に達した。正しいかどうかだけではなく、何かを考えているのなら発言を試みるのが学びの場だというのに、中途半端な恥かしさを恐れた僕は沈黙することを選んだのだった。 僕は「わかりません」と答えた。先生は、別の生徒の名前を口にした。その人も、わからない、と答えた。先生は特に失望した様子も見せずに「今日は桜桃忌です」と言った。 ああ、そうだ。たしかに、いまごろの時期だった。何度か目にしていた情報だというのに、すっかりと忘れていた。日本文学の授業なのだから文学に関する話題に決まっているじゃないか……。と、思ったのだった。 あの日から「6月19日は桜桃忌」という情報が、僕の頭の中には情けない体験と共に刻まれることになった。そして、いつかどこかで誰かに「 太宰治 って、女性と心中したんだよね?」などと聞かれた時に「そうだよ。そして桜桃忌は6月19日ね」と聞かれてもいないことを間髪入れずに答えられるようにしようと決めたのだった。 あれから20年近い年月が過ぎた。今までに「太宰の死因」が話題に上がることはなかった。当然のことながら「6月19日」について説明を求められる機会もなかった。それでも、いつかまた聞かれる時のために、即座に答えられる準備だけはしておこうと毎年この時期になる度に思うのだった。 ☝ TOPへもどる ☝ このブログの目次

「中国行きのスロウ・ボート 村上春樹 」読書の記憶 三十九冊目

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六月といえば梅雨である。もちろん他にも色々と六月を印象づけるものがあるとは思うけれども、とりあえず自分の場合は梅雨であり、雨降りである。自分は今の時期の雨はわりと嫌いではない。もちろん、晴れの日が好きなことには変わりがないし、登山をしている時やキャンプなど野外活動時の雨はできれば避けたい天候である。なにしろテントを張ったり撤収したりしている時の雨は実に不快なものだ。通常の1.25倍の時間と手間と労力がかかる。そこに強い風などが吹いてきた日などは、ああ、なんてこった、うーっ、ともはや苦行の気配すら漂ってくる。なんでわざわざこんな日に、と自分で決めたことを批判したくなる。 しかし、釣りをしている時の雨は歓迎である。とくに六月から夏にかけての雨は格別なものがある。空から落ちてきた雨が水面に波紋を作り、あわてて着込んだ合羽をパタパタと叩く音を聞いていると、その美しい景色と音に誘われるように心の奥から和みの気配が沸きあがってくる。さあ、この雨で魚の活性も高くなるだろう。いつでもこい、と期待感も高まってくる。静かに降り続く雨の中、淡々と竿を降り続ける釣り人の頭の中には、このような和みと歓喜の渦がわきあがっているのである。 さて話を戻そう。今回の「雨降り」という言葉から、自分が最初に連想した作品は「 伊豆の踊子 /川端康成」だった。これはあきらかに、冒頭の「 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠が近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓からわたしを追って来た。(伊豆の踊子 より) 」がその理由である。雨が主人公の今までとこれからを暗示するかのような、重要なモチーフとなっているから、なぜこの作品が思い浮かんだのかは明白だった 。 そして、ほぼ同時にもう一作品思い浮かんだのが「中国行きのスロウ・ボート/村上春樹」だった。これは自分でも、なぜこの作品が思い浮かんだのが理由がわからなかった。他にも「雨」がモチーフになった作品はあるし、題名に使用されているものもある。なのになぜこの作品なのだろう。 自分自身のことなのだがわからなかったので、あらためて読んでみようと考えた。そしてそれは、読み返すまでもなく本を手に取った瞬間に理解できた。表紙の安西水丸氏のイラストである。この純粋な「水色」から雨をイメージしたのではないか。おそら

「城の崎にて 志賀直哉 」読書の記憶 三十八冊目

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自分の場合、一人旅の計画を立てる時には可能な限りスケジュールをギチギチに詰め込むことが多かった。まずは朝一番で美術館を見て、昼から博物館へ行き、余裕があればこことそこにも寄ろう、と地図を見ながら移動距離と営業時間を考えつつ細かく計画を立てていく。普段の生活で、車で10km移動するとなると「うーん、次回にするか・・・」と面倒になるのだけど、旅先の場合は「20kmか。よし、行こう」と足取りも軽やかに向かってしまう。食事はコンビニで買った缶コーヒーとパンで済ませて、少しでも遠くへひとつでも多くの場所へと移動を繰り返し続けるのだった。 なので、夕方を過ぎるころには体力も気力も限界近くに達してしまい「もう風呂に入って寝よう」とホテルの部屋に戻り、ぐったりぼんやりと過ごすことも少なくなかった。それはどちらかというと「旅を楽しむ」というよりは「計画を実行する」ことを目的とした行為のようだった。「ここに来た。予定のものを見た。次はそこだ」と、事前にイメージした内容を可能な限り多く消化していくことが、自分にとっての「一人旅」だったような気がする。 年齢を重ねて、旅の回数が増えた今では、だいぶ余裕のある計画を立てるようになってきた。それでも予定よりも計画が早く進んだ場合は「今からでも、ここなら行けるかもしれない」と、即座に移動を選択する方を選ぶことが少なくない。これはもはや性格のようなものなので、程度こそ変化したとして根本の部分は変わらないのかもしれない。 志賀直哉 の「 城の崎にて 」の主人公のように、目の前の事象に目を凝らし静かに思考を深めていくような旅の時間がもてたのなら、もうすこしましな人生を送れたのだろうか。いや、やはり同じような人生を選択しただろうか。ふと、そんなことを考えました。 関連: 旅行記 志賀直哉旧居へ行く 志賀直哉    小僧の神様   城の崎にて

「トカトントン 太宰治 」読書の記憶 三十七冊目

幼稚園の年長組のころだったと思う。もしくは小学一年生。おおむねそのくらいのころの話。寝る直前に耳を澄ませると、きーん、という金属音が聞こえることに気がついた。その音に集中すればするほど、はっきりとそして大きくなっていくように感じられた。 いつしかこの音はどんどんと大きくなって、やがて耳が聞こえなくなるのではないだろうか? と、幼稚園児の僕は考えた。それは、子供ながらに恐ろしい空想だったので、しばらく耳に音を澄ませたあと「気にしないようにしよう」と決めることにした。気にしなければ、やがて消えるだろう。寝て起きれば消えるだろう。そう思ったのだった。 しかしその音は、静かな夜になると聞こえてきた。微かだけれども、集中すると必ずそれは聞こえてきた。横を向いてみたり、うつぶせになってみたりしても聞こえてくる。近くで寝ている弟は聞こえないのだろうか。聞こえてくるのは自分だけなのだろうか。 思い切って両親に「夜、寝る前に、キーンと、いう音がする」と打ち明けた。すると母親が「ああ、それは耳鳴りね」いうようなことを言った。そして「おばあさんも、耳鳴りが聞こえるって言ってたね。ポー、ポー、ポーと、汽車が走る時のような音が聞こえるんだって」。その話を聞いた僕は、そのうちこの音がポーポーポーに変化するのだろうか、と思った。そして、音の種類は異なるが、同じように何かしらの音が聞こえる人がいるのだとわかった僕は、すこしだけ安心したのだった。 太宰治 の「トカトントン」を読んだ時に思い出したのが、この音だった。そして、祖母が亡くなった時にも、ここに書いたことを思い出した。祖母に「音」のことを聞いたかどうかは忘れてしまった。ただ、もし聞いていたとしたら、否定も肯定もせず静かに僕の話を聞いてくれていただろうと思う。 太宰治     人間失格   思ひ出   富嶽百景   トカトントン   皮膚と心   I can speak    一問一答   兄たち   葉   同じ星

「微笑 芥川龍之介」読書の記憶 三十六冊目

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中学三年生の初夏。友人と地元の海へ行くことになった。部活動も引退し、時間と体力をもて余していた僕たちは「受験勉強」という課題はひとまず横において「せっかくの夏なのだから、少しくらい夏らしいことをしておこう」と、海へ遊びに出かけたのだった。 着替えを終えると同時に、野球部のKが海の方へ向かって走って行った。Kは全力で波打ち際に走り込み、打ち寄せる波に足をすくわれて見事に転んだ。その転ぶ様子が絵に描いたような豪快な転び方だったので、僕たちは声を揃えて笑った。 Kはニヤニヤしながら、こちらへ戻ってきた。その様子を見た同じ野球部のMが「K、おまえ太ったな」と言った。確かに、部活を引退してまだ数ヶ月だというのに、Kの身体は太り始めているように見えた。Kが何と返事をしたかは忘れてしまった。「そうなんだよ」と肯定したような気もするし、ただニヤニヤと笑っていただけのような気もする。くわしくはもう忘れてしまった。 芥川 の「微笑」を読んだ時、この時のKの様子が頭に浮かんできた。全力で砂浜を走っていく、後ろ姿が思い出されてきた。彼は今頃、だいぶ貫禄のある体型になっているだろうか。いやいや、他人のことは言えない。自分も最近ちょっとまずいのだ。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書の印象   杜子春   春の夜   鼻

「やまなし 宮沢賢治」読書の記憶 三十五冊目

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「やまなし」が、わからない 僕が小学校の低学年だった時の話。文化祭の時に、 宮沢賢治 の「やまなし」を演じた学年があった。その舞台を見た僕は、軽い衝撃を受けた。衝撃といっても、舞台の内容そのものにではない。「やまなし」の内容が、まったく意味が理解できないことに衝撃を受けたのだった。 何がおもしろいのかわからない。いや、おもしろさという以前に、意味がわからない。これは何だ? 舞台で演じられているということは、すごい作品なのだろう。すごくて有名な作品なのだろう。しかし、今の自分にはその素晴らしさがわからない。「クラムボン」とは何だ? 舞台が進行しても「クラムボン」が何なのかわからない。どうやらあの蟹が 「クラムボン」ではないらしいことはわかる。しかし いくら待っても 「クラムボン」は登場しない。蟹達も 説明することはない。そして、わらっていた「クラムボン」は殺されて死ぬ。そしてまた笑う。殺された「クラムボン」が生き返ったのか? それとも別の「クラムボン」? いや 「クラムボン」は生き物の名前ではなく、何か別の存在なのか?  やはりわからない。 ひとしきり考えたあと、僕は理解することをあきらめた。たぶん今の自分にはまだ無理なのだ。もう少し学年が上がって、いろいろと勉強すればわかるようになるのかもしれない。悔しいけれど、今の自分には無理なのだ。まだまだ今の自分には理解できないことが、たくさんあるのだ。そのひとつがこの 「クラムボン」なのだ。でもいつかきっと。学年が上がれば、あと数年後になれば、きっと理解できるようになっているはず。 そんな風に考えることにした。 それから、だいぶ時間が過ぎた。十年も二十年も三十年以上もの時間が過ぎた。先日、あらためて「やまなし」を読み返してみた。そこには、軽やかなリズムと、ぷかぷかと流れながら大きくなっていく二つの魂の姿があった。すこしだけ作品の世界を理解できたような気がした。 宮澤賢治    銀河鉄道の夜   よだかの星   セロ弾きのゴーシュ   ポラーノの広場   革トランク   グスコーブドリの伝記   風の又三郎   春と修羅 序   春   注文の多い料理店 新刊案内   猫の事務所   報告   真空溶媒