【文学セミナー】夏目漱石 前期三部作「三四郎 それから 門」あらすじ解説 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 前期三部作「三四郎 それから 門」あらすじ解説 夏目漱石 前期三部作「三四郎 それから 門」の「あらすじ」を動画で解説しました。いわゆる「ネタバレありの解説」のため、これから読む人は注意してください。 夏目漱石「三四郎 あらすじ」 夏目漱石「それから あらすじ」 夏目漱石「門 あらすじ」 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
「同じ本を二冊買ってしまった時に、考えたこと」読書の記憶 五十八冊目 同じ本を二冊購入してしまった時のショックは、意外と大きい。買った本を覚えていないのか、という自分の記憶力に対する情けなさ。買ったのに読んでいないから同じ本を買ってしまうのだ、という未読の本の多さに対する自己嫌悪。そもそも本を「読む」のが好きなのではなく、本を「買う」ことが好きなのではないか、と物欲の強さに対する自己批判。そんなあれこれが混ざり合って、わりと大き目のショックを感じるのではないかと思う。 ちなみに自分が同じ本を買ってしまうパターンは、 1)新刊で買った本を、古本屋で見つけて買う 2)古本屋で買った本を、古本屋で買う 大きくわけて、この二つに分類される。 1)の場合は「おお、欲しかった本が古本屋で安く売られている!」と得した気分になったのも束の間、自宅で同じ本を発見してダメージを受けるというパターンである。 2)の場合は「これは確か、すでに古本で購入したような気もするが・・・まあ、ダブッても安いからいいか」と、自分の曖昧な記憶に挑戦して破れるパターンである。迷ったならば、一度自宅に帰って確認してから購入すればいいのだが、古本の場合は次回の来店時まで売れ残っている保証はないので、一か八かで勝負を挑んでしまうわけである。そして、みごとに負けてしまいダメージが蓄積していくのである。 しかし最近では「もし売り切れても、それは縁がなかったということだから」と「迷ったら買うな」の自己ルールを定めるようになっていたため、ほとんど同じ本を買うことはなかった。実際に、次回に来店した時に売り切れていたとしても「仕方がない」とあっさりと諦めることもできるようになってきた。 これはおそらく、年齢を重ねることで「手に入らないことによる悲しみの感情」が減ってきたからかもしれない。「手に入るものよりも、入らないものの方が多いんだよ」と、経験から学んだ人生哲学のようなものが確立してきたからなのかもしれない。 しかし、その反面「一度手に入れたものに対する執着」は強くなってきたようにも感じる。手に入らないものは仕方がないが、そのかわり、一度手に入れたものはしっかり掴んで離したくない、という感情が強くなってきたようにも感じるのだ。そう考えると、全体ではプラスマイナスでゼロになるのだろうか。意外と、世の中というものは「そんな風に」どこかで つづきを読む »
「性に眼覚める頃 室生犀星」読書の記憶(九十五冊目) 高校生のころの話。僕は「文学史」のテスト対策として、作品と作者名を暗記していた。「蟹工船 小林多喜二」「田園の憂鬱 佐藤春夫」「太陽のない街 徳永直」「山椒魚 井伏鱒二」・・・。そこには、まだ読んだことのない作品がずらりと並んでいた。僕は作品名から内容を想像したり、語呂合わせをしたりしながら、苦手な暗記を繰り返していた。 その中でも、圧倒的に覚えやすかったのが、室生犀星の「性に目覚める頃」だった。「抒情小曲集」は覚えるのに苦労したが「性に目覚める頃」は、ストレートに頭の中に入ってきた。題名から想像するに官能的な内容なのだろうか? いや「目覚める頃」だから少年期から青年期にかけての時期の作品だろう。そうすると、少年の妄想を中心とした作品で・・・いや、室生犀星は詩人だから、悲しみを含んだ「性」なのかもしれない。 そんなことを考えながら「室生犀星 = 性に目覚める頃」は、わずか数秒で頭の中に叩き込まれたのだった。ちなみに、実際にテストに出題されたかどうかは忘れてしまった。「抒情小曲集」は、模試か何かで出題されたような気もするが、はっきりとは覚えていない。 この犀川の上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯うしろに、どっしりと聳えている飛騨の連峯を靄の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換えたりした。(性に目覚める頃 室生犀星より) 今年の五月の連休を利用して、金沢へ旅をした。旅先では、室生犀星が生活をしていた 雨宝院を訪問 した。住職から犀星についての説明を伺いながら、旅から帰ったら作品を読み返してみようと考えていた。 先日、時間ができたので「性に目覚める頃」を手に取った。住職に「ここが、当時の気配を色濃く残している場所です」と案内していただいた堂内の風景が頭に浮かんだ。塗香をして御本尊に手を合わせた時の香りの記憶も、ほのかに蘇ってきた。それは、やさしくも内に強い熱量を持った、あの青年期の気配に、どこか似ているような気がした。 つづきを読む »
「厠のいろいろ 谷崎潤一郎」読書の記憶(九十四冊目) 今回は「厠 =トイレ」についての話である。清涼(?)な話ではないので、気になるような状況の人は、ここから先をお読みになる事はお勧めしない。 … … 読み進めているという事は、あなたは今「トイレ」の話をされても大丈夫と言うことですね? では続けていきたいと思う。 ボットン便所と、バキュームカー 小学生の頃の話。その当時、私の家族が住んでいた借家は、水洗ではなく汲み取り方式のトイレだった。いわゆる「ボットン便所」というやつである。 汲み取り式の便所は、アレが一定量貯まるとバキュームカーに来てもらって、汲み取ってもらうことになる。作業を始めたバキュームカーからは、独特の匂いが周囲に漂ってきて、下校途中にバキュームカー見つけたりすると「逃げろ!」と、息を止めて走り去ったものだった。 ある日のことだった。自宅のトイレの汲み取り口に、見たことがない厚手のゴム手袋が置いてあった。バキュームカーの人が、作業後に忘れていったのだった。私は「この手袋がなければ、作業ができないのではないか」と子供ながらに心配した。予備の手袋はあるのだろうか? それとも軍手などで代用するのだろうか? 私は母親に「バキュームカーの人が手袋を忘れていった!」と報告した。母親は「ああ、忘れたのね」と言うと、地面に落ちていた手袋を拾って、臭気を抜く煙突(臭突というらしい)にぶら下げた。そして、その状態のまま数日が過ぎ、いつのまにか手袋は、そこからなくなってしまっていた。 便所の匂いには一種なつかしい甘い思い出が伴うものである。 (厠のいろいろ 谷崎潤一郎より) 谷崎潤一郎「厠のいろいろ」を読んだ時、ここに書いたことを思い出した。そして思い出した瞬間、鼻の中にあの独特の匂いが戻ってきたような気がした。 つづきを読む »