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「富嶽百景 太宰治」読書の記憶 二十六冊目

小学四年の夏だった。いやもしかすると三年だったかもしれないが、たぶん四年の方が確率が高い気がするので四年にしておく。 小学四年の夏だった。 父親が突然岩手山に登る、と言い出した。夜中に登り始め、頂上で朝日を見るのだという。それまで山に登ったことがなかった僕は、登山というものがどのようなものかもわからなかったけれど、大変そうだけど頑張れば大丈夫かな、という程度の認識で挑戦してみることにした。 おそらく父も、よく調べもせずに「知り合いが登ったらしいから自分達も登れるだろう」程度の感覚だったと思う。その時は弟と三人で登ったのだが、一リットル程度しか入らない水筒を一本しか用意していなかったあたりに詳細を調べていなかった感が表れていると思う。たとえば今の僕ならば、ひとり一リットルは用意するだろう。ルートマップも持たせて「今はここだぞ」と位置を確認させながら登るだろう。なにせ相手は小学四年生なのだ。生まれて初めて二千メートルクラスの山に登るのだ。そのくらいのサポートと準備は必要だろう。 とにもかくにも、そんな風にして、突然挑戦することが決まった岩手山登山。真っ暗な深夜に出発して、とにかく苦しくて何がなんだかわからないほどに疲労して、それでもなんとか数時間もひたすら登り続け、ついに頂上で日の出を・・・見ることはできなかった。登っている途中で時間切れ。太陽が上がってしまったのである。なんとも中途半端な御来光となってしまった。しかしまあ、人生初の御来光を頂上ではなく途中で拝んだというのも自分らしいといえば自分らしい展開なのかもしれない。 しかし頂上までは辿り着けなかったとはいえ、足元に広がる雲海を突き抜けて登ってくる太陽の姿には、子供ながら何か違う迫力を感じたものだった。これはなかなか見られるものではない。家で留守番をしている母にも見せたい、とも思った。そしてこれが、僕の登山の原風景となった。登山と聞けば、この時の登山の様子が微かに漂ってくるし、御来光のイメージといえばこの時の鮮やかさと力強さが基準になっている。あれからいくつかの山を登ったのだけれど、この時のように晴れ渡った風景を眺められたのは、どんなに天気予報を見て確認したとしても半分以下だった。そのような意味では、とても恵まれた登山だったと思う。 太宰治 の富嶽百景には、十国峠から見えた富士山を見て「げらげら笑

思ひ出 (太宰治) 読書の記憶 二十五冊目

小学校3年生の時だったと思う。その時僕は、仲の良かったS君とH君と3人で一緒に下校していた。雨が降っていたけれど僕は傘を持っていなかったので、H君が持っていたひとつの傘にいれてもらって三人でぎゅうぎゅう詰めになって歩いていた。いやS君の傘だったかもしれない。S君が持っていた折りたたみの傘だったような気もするけれど、H君の方が几帳面な性格だったから天気予報を見て傘をもってきていたような気がする。いや、まてよ。S君は折りたたみの傘を持っていたけれど「出すのが面倒だ」とかなんとか言って、わざと3人でH君のひとつの傘に入っていたような記憶もある。記憶というものは曖昧なので、もしかすると全然別の状態だったかもしれないけれど、とりあえず3人でひとつの傘に入って下校していたということは確かだったと思う。  昨日見たテレビの話題とか、車の緑色のナンバーを5回連続で見るとラッキーだとか、小学生の僕たちにとっては重要な話をしながら、人口密度の高い傘はよたよたと道を歩いていった。別れ道に来た。S君とH君は向こう側。僕ひとりだけ、こちら側へ曲がらなければいけない。「じゃあな」「今度あそぼうぜ」「またな! またな!」と、明日もまた同じ学校で同じ教室で同じ授業を受ける仲間だというのに、やたらと大袈裟に挨拶を交わした後、僕たちは別々の方向へ家路を急いだ。  ここから自宅までは、まだ10分以上歩かなければいけない。雨はさほど強くはないけれど、家に着くころにはかなり濡れてしまっているだろう。僕は、うつむいて自分の足元の辺りを見ながらひとりで歩いた。横断歩道の前で立ち止まり、青になったのを確かめてから渡った。踏切が近づいてきた。なぜだか良くはわからないけれど、踏切のすぐ手前だったことははっきりと覚えている。その時だった。僕の頭の上に、傘がさしかけられた。僕は驚いて上を見上げた。見知らぬ女性が自分の傘の中に僕を入れてくれたのだった。  「ふふっ」と、その女性は僕を見て笑った。その時の僕からすると、母親くらいの年齢に見えたけれど、もしかするとずっとずっと若かったかもしれない。僕はおどろいてしまって、何も言う事ができずにそのまま自分の足元を見たまま歩き続けた。その女性も僕のペースに合わせるようにして、傘をさして歩いてくれていた。距離にしたら、ほんの200mくらいだったと思う。 線路の先のT字

芋粥 (芥川龍之介) 読書の記憶 二十四冊目

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大学生の時に上京した僕は、アパートを借りて一人暮らしを始めたのだが、今考えてみると「毎日いったい何を食べて生活していたのだろう」と、自分のことながら不思議に思ったりする。 一応、自炊はしていたけれど、そのほとんどが「麺類」で済ませていたことは覚えている。蕎麦、パスタ、ラーメンをローテーションして、卵やベーコンを焼いたり、コロッケを買ってきたりして食事を済ませていたような気がする。 とりわけ蕎麦が好きだったので「簡単だし、毎日蕎麦でもいい」と思っていたくらいだった。いつもだいたい二人前くらいの蕎麦を茹でて、ズルズルとすすって「もう少し食べたいけれど、また茹でるのは面倒だな」と、毎回思っていたような気がする。そして不思議なことに「よし、今日は三人前茹でよう」と実行した時ほど、なぜか食が進まなくて二人前で腹がいっぱいになったものだった。 先日、無性に腹が減った時があって、蕎麦を3.5人前分くらい一気に食べたことがあった。2.25人前くらいまでは何てことなく食べ進み、全然いける、4人前くらいいけるかも、と思っていたのだが、2.5人前を過ぎたあたりから急に満腹感がやってきた。それでも3人前はいけた。しかし、皿の上にはあと0.5人分ほど残っている。できれば食べたくないが、しかし残すのももったいないし、食べようと思えば食べられる感覚もあったので、食べ切ることにした。 食べ終わった時、僕の頭の中には「もう当分の間、蕎麦は食べなくてもいい」という気分で一杯になっていた。「もう食べられない」という気分になったことは、今までも数回あったような気がするが「もう食べなくてもいい」と感じたのは初めてのような気がした。 芥川 の芋粥に登場する主人公も、このような気分だったのだろうか。いや彼の場合は、食べる前に胸がいっぱいになったのだった。どちらにせよ、なにごとも「あともう少し」のところで終わりにしておくのが良いのかもしれない。次への楽しみや期待が残るあたりで、やめておいた方が良いのかもしれない。 芥川龍之介   トロッコ   芋粥   大川の水   蜜柑   微笑   槍ヶ岳紀行   魔術   漱石山房の秋   鑑定   早春   愛読書の印象   杜子春   春の夜   鼻

ポラーノの広場 (宮澤賢治) 読書の記憶 二十三冊目

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ボクのボストンバック 小学二年生の時の話。 その頃ぼくは、緑色の小さなボストンバッグを愛用していた。大きさも重さも小学生の頃の僕にはちょうど良いサイズで、どこかにでかける時には、いつもそれを持ち歩いていたものだった。 学校の課外授業として、どこかの施設を見学に行くことになった時にも、僕はいつものようにそのバックを持ってでかけることにした。中にはノートと筆記用具。それから、プリント類を入れていたような気がする。他にもハンカチなどを親に持たされたような気もするけど、詳しくは忘れてしまった。 施設の見学は順調に進み、帰りの電車に乗って学校へ帰る時のことだった。僕達を乗せた電車は、何事もなく予定の駅に到着した。生徒は我先にとホームへ降りて行った。僕もその流れに続いて先を急いだ。賑やかな集団が駅舎からゾロゾロと外に出てきて、駅前の広場に整列した時のことだった。 僕は、右手に持っていたはずのボストンバッグがないことに気がついた。でも、なぜそれがないのかを理解することができなかった。空っぽの右手を覗きこみながら「あれ? あれ?」と繰り返しているだけだった。 少ししてから、僕は自分がボストンバッグを電車の中に置き忘れてしまったらしい、という結論に辿りついた。その段階になり、ようやく事の重大さに気がついた僕は、あわてて担任の先生に相談することにした。 先生は駅に問い合わせて、カバンが車両に残っていないかを調べて欲しいと、頼んでくれた。そして「駅員さんが調べて後で連絡してくれるそうだから、一度学校に帰ろう」と言ってくれた。 そこから先の記憶は、ほとんど残っていない。「バックの中には何が入っているの?」「手帳と筆記用具です」と、そんな会話をしたような気がする。友達から、大丈夫? と声をかけてもらった記憶もある。「そういえば降りる時に、椅子の上にバックが置いてあったのを見た」と言い出す子もいた。僕は、そんな言葉に耳を傾けてはいたけれど、少しも頭の中にははいってこないことを感じていた。 結局、緑色のボストンバッグは見つからなかった。僕は、電車の椅子の上にぽっんと置き去りにされたバックが、電車に乗って遠くまで行ってしまう様子を想像した。今すぐにでも、あの電車を追いかけて、バックを探しに行きたいと思った。そしてそれは、小学生の僕には

辞書を読もう。 読書の記憶 二十二冊目

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スマートフォンを使うようになってから、めっきりと辞書をひかなくなってしまった。なにせ、スマホを手にとって調べたい語句を入力すれば、瞬時に知りたい情報が表示されるわけだから、辞書の使用頻度がさがってしまうのは致し方ないことだろう。 学生のころ「辞書をひいた回数で、成績が決まる」「とにかく辞書をひけ。辞書をひくということが勉強なのだ」と繰り返し言っていた先生がいたのだけれど、その先生が現在の状況を見たのならば何というだろう。それでもやはり「辞書を引きなさい」というのだろうか。それとも「スマホでも構わない。調べることが大切だし、何よりも時間が短縮されるのは良いことだ」と言ってくれるのだろうか。 そう、辞書についてもうひとつ思い出したことがあるので今から書いてみたいと思う。僕が小学一年生の頃の話だ。 自宅の本棚に子供向けの辞書が一冊あった。その時の僕は「辞書= わからない語句を調べるもの」ということを知らなくて「辞書=たくさんの豆知識が書かれている本」と勘違いしていた。つまり賢くなりたい人が読む本だと思っていたのである。そこで「小学生になったわけだし、かなり厚い本だけどひとつ挑戦してみるか」と、小学校に進んだことをきっかけに読んでみることにしたのだった。 読み始めてから二ヶ月後、無事にすべてのページを読み終えた僕は……と、いうようなことはなく、やはり当然のように最初の数ページで挫折してしまうことになる。「なんて読みにくい本だ。まだ自分には早すぎたのかも」と感じたことを、おぼろげながらに覚えている。若干の敗北感もあったような気がする。 それにしても、子供とはいえ「辞書を普通の本」だと思い込んで読み始めてしまった当時の自分のことを考えると、いくらなんでも「これは普通の本ではない」と思わなかったのか、と思う。「あのなあ、それは豆知識の本ではないんだよ。ほら、こっちの本を読みな」と、背中をポンポンと叩きながら、当時の自分に教えてやりたい気がするわけです。 ☝ TOPへもどる ☝ このブログの目次

よだかの星(宮澤賢治)読書の記憶 二十一冊目

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ぐんじょういろ は、どんな色? 小学校に入学する時、親に「24色の絵の具」を買ってもらった。そこには、今まで見たことがないような彩りが並んでいて、ここにある絵の具を全部使って絵を描いたならば、とんでもなくすばらしいものが描けそうだ、と子どもながらにわくわくしたものだった。 その絵の具の中に「ぐんじょう」という色があった。見た目は「あお」を濃くしたような感じ。でもそれは「こいあお」でも「くらいあお」でもなく「ぐんじょう」だった。 「ぐんじょう」とは何だ? 「レモンいろ」ならば、レモンを描く時に使えばいい。でも「ぐんじょう」は何に使えばいいのだろう? たぶん、ぼくが知らない「ぐんじょう」という何かがあるのだろうけれど・・・いつか使う時がくるのだろうか? そして「あお」や「そらいろ」は何度も使ったけれど「ぐんじょう」は使いどころを見つけることができないまま、小学生の図工の時間は過ぎ去って僕は中学生になってしまっていた。 よだかの星(宮澤賢治) 中学2年生の冬休みの時だった。自宅の本棚に 宮沢賢治 の「よだかの星」が並んでいるのが目にとまった。確か、妹が誕生日のプレゼントか何かでいただいた本だった。薄くて読みやすそうだったので、時間をもてあましていた僕は読んでみることにした。 よだかが青い星を目指して飛んでいる場面を読んでいた時、この時よだかが見ていた色が「ぐんじょう」だったのではないか、と思った。 宮澤賢治    銀河鉄道の夜   よだかの星   セロ弾きのゴーシュ   ポラーノの広場   革トランク   グスコーブドリの伝記   風の又三郎   春と修羅 序   春   注文の多い料理店 新刊案内   猫の事務所   報告   真空溶媒

ふしぎな図書館(村上春樹 佐々木マキ)読書の記憶 二十冊目

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確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。「確か」とか「だったと思う」と書くくらい記憶が曖昧で、全然違う授業だったかもしれない。もしかすると全く間違っているかもしれないが、とりあえず小学生の社会見学の授業ということで話を進めていく。 確か、小学生の時の「社会見学」の授業だったと思う。クラスで班を作って、希望の職場を見学に行くという内容で、僕は「図書館」を選んだのだった。前にも書いたけれど、小学生のころの自分にとって、図書館は「好奇心をくすぐられる場所」で世界で3番目くらいに好きな場所だったから、訪問できることがとても楽しみだった。自分が興味がある世界に、少しでも近づくことができる。そんなわくわくで胸を躍らせていたような記憶がある。 そして当日。僕の記憶に深く刻みこまれたのが「書庫」の風景だった。「ここから先は書庫で、普段は入れない場所なのだけど、今日は特別に」と、そのような説明を受けてから踏み込んだその場所は、古い本独特の埃っぽい匂いと、ひやりと冷たい空気と、少し薄暗い電灯と、そして見上げるような高さの本棚がずらりと奥まで並んでいる非日常な空間だった。その場所は、小学生の僕には「気安く立ち入ってはいけない場所」のように感じられた。いや、もしかすると「一度踏み込んだら、二度と出てこられない」ような、そんな異質な世界に感じられたのだった。 怖いような気がした。それと同時に、大人になったらまたこの場所に来よう、とも思った。今から死ぬまでにどれだけの本を読めるかわからないけれど、絶対にここにある本の半分くらいは読んでやる。いやもっと、できるだけもっとたくさん読んでやる。そんなことを考えていたと思う。 村上春樹の 「ふしぎな図書館」を読んだとき、僕の頭の中にはこの時の記憶が蘇ってきた。あの時案内された書庫の奥の方にも閲覧室があって、そこには小柄な老人がいて・・・。 村上春樹    ふしぎな図書館   中国行きのスロウ・ボート   世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 佐々木マキ   ぼくがとぶ   ふしぎな図書館

雪国(川端康成)読書の記憶 十九冊目

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幼稚園のころの話。 母親に連れられて、病院に予防接種を受けに行った時の話。今はどうなのかわからないけれど、その病院では子供は腕に注射をするのではなく尻に注射するシステムになっていた。 ズボンを脱いで診察台のようなところにうつ伏せになり注射してもらうわけである。その頃の僕は、病院や注射に対する恐怖心のようなものがなかったので、はいここの上に上がってー、はいちょっと冷たいですよー、という感じで看護師さんに注射をしてもらうことに特に抵抗のようなものはなかったし、病院で診察を受ける時には服を脱ぐものだと思っていたから、特に何も考えずに指示に従って台の上にうつ伏せになっていた。 ある日予防接種に病院へ行った時のことだった。いつものようにズボンを脱いで台の上にうつ伏せになった僕を見た看護師さんが「恥ずかしくないのー?」と、クスッと笑いながら話しかけてきた。 すると、その様子を見た別の看護師さんが「恥ずかしいよねー。すぐ終わるから、ちょっと待っていてね」と、言って「恥ずかしくないの?」と口にした看護師さんに、そのようなことを言ってはいけない、と注意をしている様子が見えた。その時僕は、例え病院であったとしても服を脱ぐということは恥ずかしいことなのだ、ということを知ってしまった。新しい体験をすることで、今まで感じなかった感情が生まれてしまったのだった。 そして「次回からは、ギリギリまでは服を脱がないようにしよう」とか「この看護師さんではなくて、他の人にしてもらおう」などと、幼稚園児なりに色々と対策を考え始めることになったわけです。 川端康成の「雪国」を読んだのは高校2年生の夏休みくらいだったと記憶している。最初に読んだ時は、さりとて深い感銘を受けた記憶はなかった。 もちろん、なんだかよくわからないけれどすごい作品だ、とは感じていたけれども「なんだかよくわからないけど」というのが正直な感想だったと思う。社会人になり数年が過ぎた時、あらためて「雪国」を読み返してみた。とあるショットバーに「雪国」というカクテルがあって、連れがそれを頼んでいるのを見て読み返してみたくなったのだった。 読み終わってから、こんなに深い作品だったのか、としみじみとした。様々な体験をすることで、今までは見えていなかったことが見えてくるようになる。それが年齢を重ねるというこ

かさじぞう 読書の記憶 十八冊目:

3月11日 の震災から2ヶ月ほどが過ぎたあたりだったろうか。五月の連休はとうに過ぎてしまっていたような気もするから、3ヶ月ほど過ぎてしまっていたかもしれない。 僕は自転車に乗って、ひとり沿岸部を走っていた。あちらこちらに瓦礫が散乱していて、土の上を吹き抜けてくる風からは、海の匂いがした。子供のころから何度か通ったことがある道だったけれど、でももうそこには、目印にしていた建物も道標も、何も残ってはいなかった。ただ静寂に包まれた荒野が広がっているだけだった。 僕は、丁字路の手前に自転車をとめた。波打ったアスファルトの上に立って、海の方を見た。ここから海岸は、こんなに近かったんだ、と思った。車で10分以上走らないと海岸までは行けないと思っていたのに、今なら自転車でも数分で辿りつけそうだと思った。 その時だった。丁字路の左手の方から老夫婦が二人並んで、こちらの方に向かって歩いてきた。二人とも手には何も持っていなかった。いや、女性の方がペットボトルを持っていたような気もするけれど、くわしくは忘れてしまった。 二人は並んで僕の方に近づいてきた。そして挨拶するでもなく、突然「このあたりに、お地蔵さんはありませんでしたか?」と尋ねてきた。僕は、今自分が通ってきた道の記憶を探ってから「ちょっと見かけませんでした」と正直に答えた。すると二人は、そうですか、というような表情をすると、それならもうこれ以上あなたと話すことは何もありません、というように、すぐに右手の方へ歩いて行ってしまった。みるみると僕たちの距離は離れ、やがて見えなくなってしまった。 自宅に戻ってから、ふと子供のころに読んだ「かさじぞう」の絵本を思い出した。確か自宅の物置の奥の方に、まだ保管してあるはずだった。もう少し落ち着いたら、物置の中を探してみよう。そして、もう一度、あの丁字路へ行ってみようかと考えた。 そして、あれから数年が過ぎた。 まだ「かさじぞう」は探していない。何度か丁字路は車で通ったけれど、お地蔵さんを見かけることは一度もなかった。

壁 (安部公房)読書の記憶 十七冊目

僕がまだ大学生で、ひとり暮らしをしていた時のこと。ある日、玄関のチャイムがピンポンピンポンピンポンと、連打された。そして、ドンドンドン! とドアが叩かれ、間髪いれずに、またピンポンピンポンピンポンとチャイムが鳴らされた。 あからさまに攻撃的な雰囲気。中にいることはわかってんだ! 今すぐ出てこい! と言わんばかりのチャイム連打。不思議なもので、全く身に覚えのないことなのに、頭の中では「何かやってしまったかな?」と考えてしまうものである。朝に捨てたゴミの中に変なものがはいっていたとか?(もちろん入れていない) バイクで走行中に猫をはねてしまったとか(もちろんはねていない)など、一瞬にして色々と考えてしまうものである。僕は、急いで玄関に向かいドアを開けた。その瞬間、ドアの前で待ち構えていた人が、ドアが開くやいなや即座に隙間から手を伸ばし、玄関の中に洗剤の箱を次々と積み上げていった。 「何ですか? これは?」 と僕はいつもよりも大きめの声で、その人に言った。 「 〇〇 新聞って知ってる?」と、その人は言った。僕は黙ってうなづいた。 「前に、ここに住んでいた人に 〇〇 新聞をとってもらってたんだ。三ヶ月でいいからとってよ」 年齢は、二十代後半くらいだろうか。小柄で髪を赤く染めている彼は、つまらなそうな表情でそう言った。その態度は、オマエが「〇〇新聞」をとるのはこの部屋に住んだ時からもう決まっていることだ。さっさと契約書にサインしろ、俺は忙しいんだ。ほら何やってんだ、いいから早くサインしろ。というようなイライラとした雰囲気を醸し出していた。 僕は、この足元に積まれた洗剤がいわゆる勧誘の粗品であることを理解した。こちらの話を聞く前に、無言で洗剤の箱を積み上げてしまうことで、既成事実のようなものを作ってしまおうとしているわけだ。 僕は黙っていた。来年から就職活動が始まるからそろそろ新聞をとるのも悪くないかな、と思っていたところだったし、今回は「〇〇新聞」をとってみようかと考えていたくらいだったからだ。タイミング的には最良のタイミング。でも、この勧誘員の威圧的な態度には、どうにも納得することができない。 僕は黙っていた。そして考えた。確かに新聞はとりたいと思っていた。ちょうど洗剤も切れている。でも、この人の態度はいくら何でも横暴す

コインロッカー・ベイビーズ (村上龍)読書の記憶 十六冊目

以前も書いたと思うのだけれど、と、書き始めてみて、いやここにはまだ書いていなかったかもしれないと思ったのだが、調べればすぐにわかることなのだが、なんとなく調べるのが面倒なので気にせずもう一度書くことにする。 学生のころ、僕は中型のオートバイに乗っていた。ヤマハのFZR250Rというバイクで、排気量こそ250ccだったもののレーサーレプリカタイプという「速く走ることを目的」としたジャンルのバイクだったので、かなりの速度で道を駆け抜けることができる自慢の相棒だった。 レーサーレプリカの場合は、ハンドルがセパレート形式なので、タンクに伏せるようにして運転することになる。タンクの下にはエンジンがあるわけで、つまりエンジンを抱えるように(しがみつくように?)して走行することになる。かなりの前傾姿勢のため長時間運転していると、背中と腕がしびれてくる格好なのだけれども、その体勢はバイクと自分が一体化したような感覚、つまりエンジンが絞り出す巨大なパワーと身体感覚で一体化したような気分になったものだった。 もしも、運転中の僕の頭の中を覗き込むことができたのならアドレナリンとか、そのような脳内物質がドバドバと放出されていたに違いない。攻撃的で野性的で開放的な気分が混ざり合って、いわゆる”ナチュラ・ハイ”な状態になっていたような気がする。そのせいか、バイクという身体がむき出しの無防備で転倒したならば大ダメージは避けられない乗り物にもかかわらず、運転中に恐怖心を感じることはほとんどなかった。むしろ、もっと速く、もっと長く、この時間の中にいたいとさえ考えていたと思う。 これは、あくまでも個人的な感覚なのだが、ターボ付きのスポーツカーで加速していく時には、いつも恐怖がすぐ傍らにあったような気がする。頑丈な箱の中に守られた、四輪という安定した乗り物なのだけど、逆にひどく不安定で身体ががむき出しになっているような、危うい乗り物を運転している感覚があった。それは、速度域がバイクとは一段上の世界にあったということもあるとは思うけれど、もう少し決定的な「何か」が違っている様な気がしていた。 当時は”それ”が何かはわからなかったけれど、おそらくこの「バイクのパワーと自分が一体化したような感覚」が「恐怖を遠くに追いやって」いたのではないかと思う。車の場合はもう少し距離感があるというか